知は救済 Le savoir, c'est le salut
1661年、ユダヤ社会からの排斥の5年後、アムステルダム南のラインスブルフ(Rijnsburg)にある小さな家に落ち着き、非常に小さい部屋で書き、その横で望遠鏡のレンズを磨き、狭苦しい部屋で寝ていた。それからフォールブルフ(Voorburg)、そしてハーグ(La Haye)に移動。部屋から部屋へ、富も快適さもなく、技術者として働き、ほとんど出版されることのなかった本を書き、知識人や学者と力強さと明晰さに溢れた手紙による交流をしたのが彼の人生と要約されるだろう。彼は20数年の人生と数百ページの本により思想を一変させ、近代性を新たに創り出すことになる。後世の人はそれを見逃すことはなかった。
無口で、謙虚で、名声を気に掛けることはなかったが、思想の普及に無関心ではいられなかった。彼は世捨て人だったわけではない。プロテスタントの仲間などと定期的に会って、活発な討論をしていた。その対談が1661年に最初の作品 "Court traité" に結実する。彼の省察はまだデカルトの影響下にあるとはいえ、すでに紛いもないスピノザの特徴が現れている。それから "Traité de la réforme de l'entendement" へ。彼はすでにその主著にして世界の思想史における重要作品の一つである 「エチカ」 l'Ethique に取り掛かっていた。存命中には出版されることはなかったが、その名声には影響はなかった。ルイ14世は彼の作品の献呈を望み、1673年にはハイデルベルグ大学が哲学講座の職を提示したが彼はそれを断り、レンズ磨きを続けた。ライプニッツは彼を訪問したが、用心深さの故に、後にそれを否定することになる。
スピノザにとっての哲学は、理性により世界を全的に説明すること、その理解をもとに自らの存在を根源的に変容させること。その目的は知るために知るのではなく、知によって不安や狂信、誤った期待や無知から生れる幻想を引き起こすすべての悪を取り除こうとした。世界を理解することにより幸せになることができる、知の先には救済があると彼は考えていた。