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エルネスト・ルナンの生涯 ERNEST RENAN (II)

2007-03-21 02:34:05 | 海外の作家

ルナンは神父から教育を受けていたが、科学的な理想を受け入れていた。宇宙の見事さは彼を恍惚に導くものであった。後年、アミエル Amiel のことを評して 「日記などつける時間のある人間は、宇宙の広大さなど決して理解しなかった」 と書いている。1846年(24歳)には、彼の生徒であった将来化学者になる18歳のマルセラン・ベルテロ Marcellin Berthelot により、物理学や自然科学の確かさに目覚めさせられる。この二人の友情は最後まで続いた。このような環境で彼はセム語の文献学研究を続け、1847年には 「セム語の歴史研究」 によりヴォルネー賞 Prix Volney を授与されて、哲学の上級教員資格 (agrégation) を得てヴァンドロームの高校教師になる。

1860-61年(37-38歳)には、レバノンとシリアの考古学探索に参加する。妻のコルネリアと姉のアンリエッタとともにザキア・トゥービアの家に滞在する。その家で、彼の重要作の一つ 「イエスの生涯」 "La vie de Jésus" を書くための霊感を得る。また19861年に彼の姉が亡くなり、彼女の愛した教会のすぐ近くにあるこの家の地下埋葬室に眠っている。

ルナンは博識だっただけではない。聖パウロと弟子たちについて研究し、発展している社会生活を憂いていた。友愛の意味を考え、「科学の将来」"L'Avenir de la science" を書かせた民主主義的な意識が彼の中に息づいていた。1869年(46歳)、国会議員選挙に出る。

1年後には独仏戦争が勃発。帝政は崩壊し、ナポレオン3世は亡命する。この戦争は彼の精神生活にとって分岐点(le moment charnière)になる。彼にとってのドイツは常に思想や科学を考える上での安らぎの理想の国であった。しかし、その理想の国が彼の生まれた地を破壊してしまった今、もはやドイツを聖職者ではなく侵略者としてしか見做し得なくなる。

1871年(48歳)、"La réforme intellectuelle et morale" 「知的、道徳的改革」の中で、フランスの将来を守る手立てを模索している。しかし、それはドイツの影響を受けたままのものであった。彼が掲げた理想は戦勝国のものであった。例えば、封建社会、君主政治、少数のエリートと大多数のそれに従わされる人。これらは、パリコミューンに過ちを見た彼が得た結論であった。さらに、"Dialogues philosophiques" 「哲学的対話」 (1871年)、"Ecclésiaste" 「聖職者」 (1882年)、"Antéchrist" 「キリスト以前」 (1876年:皇帝ネロ Néron の時代を描いた 「キリスト教の起源」 "Origines du Christianisme" の第4巻)などは彼の比類なき文学的天才を示してはいるが、同時に醒めた懐疑主義的な彼の性格をも表している。フランスを説得できなかったことを知った彼は破滅への道を甘受する。しかしフランスが徐々に目覚めていくのを見ながら、「キリスト教の起源」 の第5巻、第6巻を書き上げる。そこでは民主主義との折り合いをつけ、最大の破滅が世界の発展を必ずしも中断させないこと、さらにカトリック教の教義には納得しないもののその道徳的な美と宗教的であった子ども時代の追憶との和解を見出している。

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2 コメント

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Unknown (nao)
2007-03-21 09:05:30
今日の記事には関係ないのですが、竹下節子先生のサイトで仏文和訳の問題がでました。ご興味ありましたら、お開きくださいませ。返事のメールアドレスも記載されています。
Unknown (paul-ailleurs)
2007-03-21 14:59:58
ご紹介ありがとうございます。テストは苦手なのですが、これから訪問してみたいと思います。

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