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2012年6月1日(金)/その1063◇夢の途中
人それぞれ、目的はそれぞれだ。
私ひとりの中でも、時とともに目的は変わる。
不変なのは女と金くらいだ。
都電の運転手、月光仮面、野球選手、将棋棋士、ギタリスト、
レコード・ディクター、コンサート・プロモーター・・・、
この他ポルノ男優など公表しづらいものも二・三あるが、
私ひとり例にとっても、その目的はコロコロ変遷してきた。
運よく現在は、零細出版社の無能社長と不良編集長を兼任しているが、
明日のことはわからない。
だからこそ懸命に、ゆえに楽しくやってゆける仕組みなのだろう。
職業や肩書きや結果が目的となる時期は、
五十代後半の私の中ではさすがに終わっている。
では、詰まるところは何か?
おぼろげながらも、その輪郭だけは視えている。
なかなか願い通りには運ばないスパイスの利いた現実の中を、
ほぼ無意識の状態でそこに近づきながら周遊するパセオ(散歩)
そのものがその輪郭の実態であり、
どこまでも歩いていたいが、いつ途切れても文句はない。
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2012年6月1日(金)/その1064◇云い訳
過去の20冊ほどのビジネス手帳を処分するために、
ほんのわずかに散見できるおやっという部分のみをワードに移植しながら
パラパラとめくっていると、後ろの方のメモ欄でこんな一節に出喰わす。
手帳の年度を見ると、メモ書きしたのは四十代半ばだ。
「経営者なんだから、もろもろその覚悟があればいい。
一方で、学習が好きなら、そこにもっと没頭してもいいんじゃないか。
アートが職業なんだから、アートの学習が悪かろうはずがない。
内省化が強まることでモラトリアムに向かうことを懸念してるのだろうが、
お前はそんなタマか?と云いたい。
むしろ学習の成果を、積極的に職業に反映させることを志すべきだろう」
まるで当たらないことで知られる私の予言だが、
肝心の成果さえさておけば、その方向性はそれほどズレちゃいないことに驚く。
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2012年6月2日(土)/その1065◇将棋とショパンとカロリーナ
史上初の快挙達成!という見出しが、週刊将棋の紙面に踊っている。
ポーランドの女大生が、公式戦(リコー杯女流王座戦)で
日本の女流プロ棋士(三段)を破ったのだ。
男子主流の将棋界だが、近年の女子プロは男子を負かすことも多い。
そういう女子プロに勝利したカロリーナは、インタビューにこう応答する。
女流棋士になる気はありますか?
「もちろん! イエス!」
プロになるには日本に滞在し、資格が必要です。
その方向で目指しますか?
「そのつもりです」
ポーランドと云えば、あのショパンである。
『カヴァティーナ組曲』など数々のギター名曲を創った
アレクサンドル・タンスマンも同じくポーランドの人だ。
ただそれだけのことながら、ポーランドは若い頃から憧れの国だった。
そのポーランドの若く美しい女性が、日本の将棋に憧れる。
ただそれだけのことながら、何やらとてもうれしい。
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2012年6月3日(日)/その1066◇便利なポッケ
『阿川佐和子のこの人に会いたい』
『ツチヤの口車』
『先ちゃんの浮いたり沈んだり』
これら目当てに、週刊文春をほぼ毎週読む。
さすがはあの文藝春秋社、パセオの次に面白いと思う。
(『しょちょ日記』さえやめてしまえば、パセオは一流誌なのだ)
さて、その文春最新号で「新型ウツ」特集を読む。
ふだんは普通だが、職場でのみウツになるという症状が特徴らしい。
従来型が自分を責める傾向が強いのに対し、
この新型は他人を猛攻する傾向が顕著だと云う。
会社から休暇をもらうために、専門医にウツを自己申告し、
「診断書ゲットー!」とネット投稿するエピソードは、
同種の動物として腹立たしくも哀しい。
そうした傾向の実態は、身近なところで数多く見てきたから、
実はそれほど驚いてはいないのだが、ローマ帝国滅亡の薫りが濃厚に漂う
その手のモンスター・サスペンスを私は好まない。
「経済繁栄」「平和ボケ」「無責任な過保護」など様々に理由はあるだろうが、
どれにも縁のない私としては、やはり「自己責任」を本命と診る。
百歩譲って考えれば、
これまでハシャぎ過ぎた人類に対するシッペ返し、
もしくは、人類は大きく変わらなければ生存できないという警告にも受け取れる。
だが、小せえ私が譲れるのはせいぜい三歩までで、
これまで通り、ワナワナ固まる拳をポッケに隠しつつ、
穏やかに苦笑しながら、互いの棲み分けを提案するのみだ。
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2012年6月4日(月)/その1067◇世界を統一するもの
村上龍さんの『愛と幻想のファシズム』に対するそれぞれの感想を皮切りに、
ふだんは下ネタ中心の地元カウンター席が、また異なる活気を帯び始める。
皆お茶目なロマンティストだが、その分だけリアリストでもある。
『愛と幻想のファシズム』は1984年に執筆が開始された小説だが、
その28年後の現代の地球を鋭く予感している。
役立たずの学者論を軽々と凌駕する村上龍さんのこの明快な作品は、
日本および国際情勢を舞台に、
生命の孤独とシステムそのものの限界を主要テーマとしている。
どんな優れたシステムも既得権構造を生み、やがては人間そのものの退廃を招く。
その改善に極論的に踏み込む、読み始めたら止まらないバイオレンス・ファンタジーだ。
国々の程良いナショナリズム同士の協働。
まあ、そういう均衡が理想というのが我ら呑んだくれ仲間の共通見解だが、
現在を含む古今東西の現実の歴史が、そういう楽観を許してくれない。
頑張ってほしい国連をはじめとする国際機構の、現状の限界は明白すぎる。
政治やメディアの混乱腐敗も、信頼できるコンパスの喪失がその主因となっている。
かつては信頼できるコンパスとして機能した宗教が、その混乱の中心にそびえている。
人類に対する大いなる絶望と、ほのかな希望。
人類とはおれたちのことで、無論他人事ではない。
世界を統一するものは経済なのか、あるいはファシズムなのか、それとも?
朝まで討論会の勢いで議論は沸騰する。
「正解はフラメンコじゃあ!」
そう叫びたい私は、
自らのただれた人間的実績を踏まえ、
辛うじてその言葉を呑み込む。
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2012年6月5日(火)/その1068◇逆手の効用
逃げ足は速かったし、球技も得意だったが、
脚の故障で体育の授業を四年間禁じられた経緯から、
結局"逆上がり"は出来ずじまいだった小学生時代。
あのころ逆上がりが出来ていれば、
また異なる世界観を持った人間になっていたようにも思う。
何故かと云えば、そういう劣等コンプレックスの反動から、
良くも悪くもその後の私は、
やたらと逆上がり的な世渡りをする人になったからだ。
劣等コンプレックスというのは中々に興味深いポテンシャルであり、
上手く活用すれば、ほとんど無尽蔵のエネルギー源に変貌することが、
今にしてわかる。
やや自信喪失気味たる愛すべき我ら日本という島国も、
列島コンプレックスを大いに活用すべき時期かもしれない。
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2012年6月6日(水)/その1069◇共存
「絶対お薦ってわけじゃないんですが」
月曜の晩、そう云いながら地元呑み友アキラが、一枚のDVDを差し出す。
息子ほど歳下の彼だが、まあいろんな刺激を私に与えてくれる男だ。
ロッカメンコや稲垣潤一の真価を理解させてくれたのも彼だし、
今では仕事必需品となったアイポッドを気前よくくれたのも彼だ。
俺は迷っていた、人生の締めくくり方を。
少年は知らなかった、人生の始め方を。
クイント・イーストウッド監督・主演
『グラン・トリノ』(2008年制作)
『硫黄島からの手紙』(2006)年によって、
監督イーストウッドには俄然注目したはずなのに、
うかつにもこの作品を知らなかった。
これまで観てきた映画の中で、一番の映画かもしれない。
深い感嘆とともにそう思った。
いや、年齢に応じ感応できるものは異なるものだから、
そりゃ云い過ぎかもしれない。
若い頃は『ひまわり』に泣き、『スティング』にかぶれた。
57歳の私に、たまたまふさわしい映画だったのだろう。
主人公は頑固一徹の嫌われ者だが、
彼の知性と感性と正義と行動とユーモアには、深く共感できる。
なぜか唯一敬愛できた政治家、故・後藤田正晴の面影が浮かぶ。
人種のルツボ、アメリカ合衆国における、
ほとんど収拾不可能と思える混沌にあっても、
こうした意志の貫き方があったかと、望外な光明が視えてくる。
その徹底したリアリズムが、バッハやフラメンコの根っ子とシンクロする。
人はこうして生き、死んでいけばいいのだという明快な各論。
アキラよ、ありがとう!
次回はたくあん二切れ奢るからなあ。
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2012年6月7日(木)/その1070◇すべての仕事は
雌雄問わず、あらゆる生命は、
生存競争を前提とする自然界に放たれた戦士だ。
おそらくそれは事実だろう。
人類だけが、他の生命体を生きる糧としながら、
同類同士仲良くできるシステムを構築できる可能性がある。
おそらくそれも事実だろう。
狩猟、農耕、宗教、政治、経済、科学、アート、スポーツなどを駆使しながら、
ともあれ人類は、よくサバイバルしてきたものだ。
つまり、他の生命体にとっては、さぞや迷惑なこの数千年だったろう。
戦争と平和。
どちらも人類の本質だ。
どちらかだけを突き詰めれば、やがては大きな矛盾を生む。
「文明の進歩」に大きく先を越された「人間の進歩」。
そのアンバランスの脅威に現代人は戸惑う。
「複数の要素の互いの影響の結果として、新たな優れた質に達する」
今のところ、そういうアウフヘーベンの理想こそが人類の目標となり得そうだ。
そこに貢献できる文化を支持し、実質的に応援すること。
まあ、その前に自活せにゃならんから、ならば各人そういう仕事を選べばいい。
あらゆる仕事には、そういう貢献の可能性があり、
たまたま私の場合はフラメンコを選んだ。
すべての仕事は、ジャンルではなく、
その志とやり方そのものに意味があるんじゃないか?
今なら素直にそう想える。
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2012年6月8日(木)/その1071◇
「一寸の虫にもゴブノタ・マーシー」
小さな虫などを含み、もれなく全員に、
ゴブノタ・マーシーの直筆サイン色紙をプレゼントする、
ほのぼのとした様子のこと。
つーか、ゴブノタ・マーシーって、いってえ誰なんだっ?
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2012年6月9日(土)/その1072◇すべてはオリジナルのように
『ヴォーカリスト・ヴィンテージ』
待望の徳永英明さんのカヴァー新譜が出た。
うれしいことに、今回なんと「昭和特集」である。
全部口ずさめるラインナップは以下の通り。
夢は夜ひらく
悲しい酒
虹色の湖
人形の家
再会
酒場にて
夕月
北国行きで
ブルーライト・ヨコハマ
伊勢佐木町ブルース
恋の季節
愛の讃歌
別れのブルース
真夜中のギター
上を向いて歩こう
初めて聴く時には、パンチ不足の肩すかし感があるのだが、
聴き込むほどに味が出てくるのはいつも通り。
その意味では、グールド弾くモーツァルトに似ている。
フラメンコで云うならミゲル・ボベーダか。
サビに頼らず、先入観を放棄したところの再構築から、
本質の骨格だけで淡々と勝負する。
どのナンバーも聴き込みながら発見する歓びがあるが、差し当たっては、
そのむかし淡谷のり子さんが唄った『別れのブルース』が素晴らしい。
その前に置かれた『愛の讃歌』を大いなる助走としながら、
終曲近くのこのフレーズには、アルバム全体のクライマックスを感じる。
二度と逢えない 心と心~♪
そのあまりの感動に、
ぬるめの風呂に浸かりながら、この部分を数十回模唱してみたが、
人生をやり直さない限り、いや仮にやり直したところで、
それが届かぬ領域であることを知る。
歌は人マネではなく、自分そのものを歌うことなのだと、改めて知る。