作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

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【 新京時代の想い出 】

2012-12-25 14:12:19 | 02 華麗な生活

先週末に、中学生たちが小鳥を捕る話を書いたが、
その連想で、同じく中学生たちが遊ぶ姿を覚えて
いる間に書いておこう。

新京で我が家があった辺りの、すぐ南側に本願寺
が建立される予定地の野っぱらがあり、そこを通り
抜けると順天公園という、かなり大きな公園があり、
それに相応しい大きな池もあった。

ソ連軍が、盗るものを全部盗って、工場の機械なども
運び出して引上げて行った後も、新京では学校が再開
されず、ボク等は小学生浪人みたいな、遊び専門の
状態に置かれていた。

あれは何と呼ぶのか、魚を誘い込んで取る道具が、
今はプラスティック製の物があるが、当時は金網で
出来ていて、小魚が餌に誘われて入ると、出られなく
なる仕掛けの物があった。

中学生たちは、順天公園の池にそれを仕掛けて、
暫く経つと、タナゴが魚麟を光らせながら、満杯に
成る程の漁獲があった。持参したバケツにタナゴを
移してまた池に沈めると、再び多くのタナゴが道具の
中に入っていた。

面白そうだと思ったが、我が家にそんな道具はなく、
僅かの年の差で中学生になると、遊び方が違うものと
感心していた。

新京には、各地の開拓農地から、命からがら逃げて
きた人々も多く、敗戦の八月が、あっと言う間に冬が
到来し、夏の衣類で逃げてきた人々は特に気の毒だった。

栄養失調と寒さで倒れる人々も多く、本願寺の予定地
は、見る間に墓穴だらけになっていった。隣近所でも、
一人の幼い女の子が亡くなり、ボクも泣きながら墓穴を
掘った。

ソ連軍が居なくなってから、現われた担任の先生が、
ご自宅で私塾を開かれ、遊び人のボクも、そこで英才
教育を受けた。その塾の名を同塵塾と先生が名付けた。

同期生の多くが同塵塾で学んだ。そこでの友人の
お母さんが病気で亡くなり、ボク等は先生の引率で、
再び墓穴を掘った。その友人はいま山形県の名士だと
聞いた。

ボクの母親は、ソ連軍が侵入して来る前の8月1日に
手術の失敗で死んだが、まだ平和な時期であったから、
ちゃんとお葬式も出し、火葬に付す事も出来た。
母のお骨は、ボクが胸に抱いて引揚げてきた。
満州の凍土の中に葬られた人々と比べれば、ボクの
母はお骨を持ち帰れた分だけ幸せである。

北朝鮮で戦後亡くなった人たちの、墓参団の訪朝が
報じられたが、あの犠牲者たちの多くは、満州から朝鮮に
逃れた人々であった筈だ。
新京に多くあった野原の至るところが、急ごしらえの墓地
になった。哀しい想い出である。

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