21世紀の淡路ではない。六十年をタイムスリップした、
敗戦直後の淡路のことである。
敗戦の翌年に、なんと4ヶ月をかけて漸く父の出生の地、
淡路島の南部に落ち着いた。
新京も奉天も標準語の地域だった。
淡路弁がサッパリ理解できない。
特に驚いたのが「ドタマカチマワシタロカ」。
相手が脅しているのだとは分る。が、返す言葉を知らない。
12歳になった引揚者には、母の愛情がなく、お伽話にある
「川で洗濯」もやった。
田んぼの真ん中に家があったが、我が家にはコメの姿がなく
大麦とサツマイモが食糧で、それもお粥にする分量しかなかった。
魚は豊富だったろうですが。
とんでもない、ボクは何年も淡路で鯛がとれるなんて知らなかった。
魚といえば、出しじゃことタコだった。
怠け者のタコが、引き潮の間、砂浜の岩の下に隠れて、
次の満ち潮を待っている。
タコにとっては巨大な岩でも、12歳でも容易に動かすことができる。
慌てたタコは逃げ出すが、足をからませながらの動きは鈍い。
12歳の引揚者は、手ごろな石を投げる。
三個も投げれば一個はストライクとなりタコは気絶する。
そいつを持ち帰って茹でて食べた。
今になって思う。もっと釣りの腕をみがくべきだった。
だが我が家には釣り針もテグスもなかった。
しじみだけは家を取り巻く溝にいっぱいいた。
それが毎日の汁の実になった。
哀れな中学生であり、高校生であった。
パパゲーノ
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