杉浦 ひとみの瞳

弁護士杉浦ひとみの視点から、出会った人やできごとについて、感じたままに。

・指導自殺~毎日新聞「闘論」から

2010-02-02 08:22:02 | 教育
1月30日の毎日新聞朝刊「闘論」で、「どうする生活指導後の自殺」というテーマで、取り上げていただいた。
これは、学校での指導後に生徒が自殺した事件の裁判で、裁判所にその自死の構造を伝えるために使った「指導自殺」という語を「闘」論のテーマとして、元東都教育委員で棋士(日本将棋連盟会長)の米長邦雄氏との対置としていただいたものです。

私の伝えたかったポイントは
「生活指導のあり方によっては生徒が自殺に至る場合もあることを認識することだ。教科教育に比べ生徒指導は教師の裁量に任せられる部分が大きいが、指導のあり方について、もう一度考えるべきではないか。」という点です。

そして、
「例えば、生徒に支持されている教師がどんな指導をしているのか、子どもの声に耳を傾けることが重要」
ではないか。
つまり、糸口は、子どもあるいは子ども時代を過ごした私たち大人の学校時代の思いを探ること、にあるのではないかと思っています。



これに対して、米長氏は
「指導力の低下は私自身も感じている。・・・私が指摘したいのは、指導力を低下させる要因の一つにモンスターペアレントの跋扈があることだ。・・・一方的に権利ばかりを主張する親がいるため教師が萎縮し踏み込んだ指導ができなくなっている。」「教師の指導力を高める取り組みは必要だ。それよりも大切なのは、教師は聖職で敬意を持って接すべきであることを親に再教育し、教師の権威を回復することだ。教師への信頼の回復が指導力の向上につながると考える。」
と述べられています。

私自身も、米長さんが指摘されているモンスターペアレントの存在は問題だと考えているのですが、それは、「権利」をはき違えて学校に苦情を持ってくる場合であって、正当な権利主張とか、親としての通常の疑問、相談はただの「ペアレント」の行動だろうと思います。

どんな分野でも、人からいろいろ批判される可能性があり、好き勝手にはできないことはうっとうしいことで萎縮することではあります。

かつては、一定の社会の中には法が立ち入らない領域がたくさんありました。
家庭でのしつけだといって体罰などの虐待が放置されていたものが「児童虐待」とされ、夫婦間の痴話ゲンカとされていたものが「DV」とされて、家庭内に法が入ってきました。
雇用関係は当事者間の問題とされていたのが、「セクハラ」「パワハラ」として取り上げられてきました。

このように、人権を守るための法は、「聖域」であった領域に入っていくようになりました。これによって、見落とされてきた人権は、法の光が当たるようになりました。
このような人権の流れに照らすと
「教師は聖職であって敬意を持って接すべきことを親に再教育し、親の権利主張を排除する」
という考え方は、逆の発想ではないでしょうか。

そのように考えることは、個人的には自由だと思うのですが、問題は、こういった発想をされる方がついこの間まで東京都の教育委員であったということだと思います。

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4 コメント

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バカにつける薬はない (yasu)
2010-02-03 19:44:28
確か、この方は、園遊会で、天皇陛下に「日本中の学校に国旗を掲げ、国家を斉唱させることが私の仕事でございます」と言って、陛下に「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」と、たしなめられた方ですよね。
陛下に対してまで、持論を述べるのだから、子供たちや保護者たちに、持論を述べることになんの抵抗も感じないのでしょう。(たとえ、それが間違った考えであったにせよ)

ちなみに、作家の鎌田慧さんは『いじめ自殺
12人の親の証言』岩波現代文庫で、つぎのように述べています。
「学校が神聖な場所とされつづけているのは、戦中の皇民化教育の残滓であり、教師への「聖職者意識」の強制は、教育勅語の延長線上にある。体罰の容認は、その証明である。」
私も、その通りだと思います。
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論理が飛躍していませんか??? (TK)
2010-02-03 23:04:39
米長氏の発言は親の権利を排除することを主張しているでしょうか?
私には、親が学校に疑問や主張を投げかけることは権利だけれども、その権利が「手段」としてではなく、「暴力」として扱われている現状に憂いているように見えます。

ブログの記述からは、米長氏が杉浦さんの主張に対して一定の理解を認めながらも、別の視点を持ち出して論点を深めています。

この日のお話は、教師の指導のあり方という問題について、教育委員の構成が原因という結論だったのでしょうか?(米長氏の問題意識に対する正面からの反論はないのでしょうか?)
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記事へのコメント ()
2010-02-04 02:17:57
TKさん、ご意見ありがとうございます。
もともと、この闘論という記事は、対談ではなく、意見の異なりそうな2人を新聞社が選んで、それぞれが取材を受けて記者が記事にまとめるようになっています。
私が、ブログに書いたのは、米長さんの書かれた記事についての感想です。
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聖職者と敬意 (鉄甲機)
2010-02-05 23:42:38
>杉浦さま
>このような人権の流れに照らすと
>「教師は聖職であって敬意を持って接すべきことを親に再教育し、親の権利主張を排除する」
>という考え方は、逆の発想ではないでしょうか。

 確かに時代に逆行するだけで何の成果も挙げられないものでしょうね。「敬意」なんて抱いてもらうもので、抱かせるものじゃない。特に「親に再教育」なんて絶対無理。
 しかし「親の 理 不 尽 な 権利主張」は排除されるべきだと思います。

 スピードスケートの清水宏保選手は「我以外皆我師」と言われましたが、「聖職」なんて思ってもらわなくても最低限の敬意を抱いていただければ、教師はそれに応えようと努力し、親御さんや児童生徒に敬意を持って接することができるんじゃないでしょうか。少なくとも私はそうしているつもりです。

 毎日新聞の方は見ていないのでなんとも言えませんが、米長氏と杉浦さん、それぞれが仰る「親の権利主張」が似ていて非なるものを指しているような気がします。

>yasuさま
>「学校が神聖な場所とされつづけているのは、戦中の皇民化教育の残滓であり、教師への「聖職者意識」の強制は、教育勅語の延長線上にある。体罰の容認は、その証明である。」
>私も、その通りだと思います。

 学校を「神聖な場所」としているのは文科省や保守派だけじゃなく、日教組・全教もそうですね。
 事故や事件はもちろんのこと、偏向教育が疑われたときに真っ先に「教育の自由」を叫び、外部からの調査を拒否してるんですから。
 結局、「神聖な場所」という治外法権は、内部で権力を握っている人にとっては非常に居心地の良い場所であるということかと。
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