風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

会津松平家初代当主・保科正之 ~1~

2013-01-22 21:09:49 | 会津藩
幕末まで続く会津松平家の初代当主・保科正之の父は、二代将軍・徳川秀忠。母は秀忠の乳母に仕えていた侍女お静。つまり嫡出の子ではないんです。

秀忠の正室お江(お江与)は大変嫉妬深い女性だったらしい。秀忠が側室を持つことを一切許さなかった。もし他所に子が出来たことが知られたら、なにをするかわからない。
お静は泣く泣く、この子を堕胎しました。
しかしことは一度で収まりませんでした。その二年後、お静は再び、秀忠の子を身籠ってしまう。将軍様のお子を二度も流すなど、畏れ多いとして、お静は義弟の下に身を寄せ、秘かに出産します。
秀忠は自分の子であることは認めましたが、のだめ…もとい、お江を恐れてか認知しないという態度をとります。ただ「幸松」という名前は、秀忠自身がこの子に付けてあげたようです。
ことは間もなく、のだめ…じゃない、お江の耳にも入り、のだ…(あっ、もういいですか?)お江は幸松に対し、刺客を放つよう指示したとも伝えられているようです。
秀忠はある女性に、幸松を預かってくれるように内々指示を出します。その女性の名は見性院。武田信玄の異母妹で、大御所・徳川家康とは昵懇の間柄でした。この当時は江戸城内の一角に屋敷を構えさせてもらっていました。このような女性の下にあれば、お江も簡単に手出しは出来ない。見性院は預かることを即決したようです。お江は見性院に文句を言ったようですが、見性院はこれを毅然と跳ね除けた。以後お江は、幸松に手出しすることを諦めました。

見性院は幸松を武門の子として強く育てたいと思いましたが、いかんせん見性院の周りには女性しかおらず、男の子をどう育てたものかわからない。そこで見性院は、立派な武門の家に養子に出すことを考えます。そして、武田家の家来筋に当たる信州高遠藩主・保科正光の下に、幸松の養育を依頼します。主筋である武田の血を引く見性院の頼みということで、正光は秀忠の了解を得たうえで、幸松を養子とすることを承諾するのです。
こうして幸松(後の保科正之)は、現在の長野県、信州は高遠に、その身を移したのです。


ここで時代を少し遡らせましょう。時は戦国、武田信玄の家来に穴山梅雪という武将がおりました。この梅雪、信玄亡き後家督を継いだ武田勝頼を見限り、敵だった徳川家康の下に身を寄せます。当時はこの様な行動はさほど珍しくはなく、恥ずべき行為でもなんでもありませんでした。より良い主君に仕えようとするのは、当時は当たり前のこと、「生きて二君に仕えず」などという武士道が形成されるのは江戸期以降、太平の世が成ってからのことです。
家康は梅雪のことが気に入っていたのか、行動を共にすることが多かったようです。かの本能寺の変の際にも、家康と梅雪は共に堺にいてこの変の報を聞き及び、巻き込まれてはかなわぬと堺を脱出、領国へと向かいます。二人は途中で別れ、梅雪は自身の城へ向かいますが、その途上、武装蜂起した土豪の集団に襲われ、殺されてしまう。
この穴山梅雪の正室こそ、先述した武田信玄の異母妹、見性院だったのです。
家康はこうした家臣の家族に対して面倒見が良かったようです。特に見性院は名門武田家の血を引くということもあって、名門好きの家康は見性院を丁重に扱ったようです。そのような経緯で、見性院は江戸城内に屋敷を与えられていたわけです。

さて、高遠ですが、信玄が没した前後の頃の高遠城は武田家の城で、守っていたのは信玄の異母弟、つまりは見性院の異母弟でもある仁科五郎守信という武将でした。
天正10年、織田・徳川連合軍は長篠にて武田勝頼率いる軍勢を殲滅。武田の勢力下にあった武将たちは次々に寝返ります。信州高遠方面には信長の長男・信忠が5万の軍勢を率いて押し寄せる。武田側の城は次々と陥落し、兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去りますが、高遠城は徹底抗戦の構えを示し、戦闘時には男ばかりではなく、女子供も戦闘に参加したようです。織田軍5万に対し高遠城の守勢はわずか3千。死を覚悟している兵たちほど手強いものはない。戦闘は凄まじく、高遠側の戦死者は3千のうち2千5百80。実に86パーセント以上、ほぼ全滅です。一方の織田軍は5万のうち戦死者が2千7百50。つまり死者数だけをみると、織田軍の方が高遠軍を上回っているんです。一人一殺どころの話ではありませんね。
この高遠城主・仁科守信は自害して果てましたが、その副将格に保科正直という武将がおりました。この正直、高遠落城の際には偶々城を留守にしており無事でした。高遠城攻防戦より三か月後、本能寺の変により信長が討たれると、正直は混乱に乗じて手薄になった高遠城の奪還に成功します。以来、保科家が高遠城主となり、徳川の世を迎えることとなるのです。
ちなみに幸松を養子に迎えた保科正光は、この正直の子息です。

この高遠城攻防戦の凄まじさ、何かを連想しませんか?そうです、幕末、戊辰戦争の会津城攻防戦に相通じるものを感じますね。

会津武士道の根は、信州高遠にあり。ということでしょうか。

(続く)


参考文献
『会津武士道』
中村彰彦著
PHP文庫