義経のことを語りたがる方々は世にたくさんおられます。かくいう私もその一人。
しかし往々にして、平泉のことを“忘れている”と思われるような発言をされる方が多いと感じるのは、私だけでしょうか。
16歳から22歳までのおよそ6年余。人生の最も多感な時期を過ごした平泉での日々、その日々が義経になんらの影響も与えていないなどあり得ない。寧ろ多大な影響を与えたと考えるのが当然でしょう。にもかかわらず、まるで平泉のことなど意にも介していないような発言をされる方々は、いったいなんなのでしょう?
まあ良いです。人は人、馬は馬。
私は私。
伊豆に幽閉されていた源頼朝が挙兵したとの報が、いつどのような形で義経に齎されたものか、一切の記録が残されていないのでわかりませんが、義経はこの報せを受け、いてもたってもいられずに平泉を出ようとします。この時の秀衡の心情はどのようなものであったのでしょうか。せっかくの手駒を、ここで手放すのはもったいない、とでも思ったでしょうか。あるいはそれもあったかも知れません。しかし、旅立つ義経に対し、平泉屈指の武将、佐藤継信・忠信兄弟を従者に付けて送り出しているところからみても、そこには親子に近い情愛があった、と読むのは甘いでしょうか。佐藤兄弟は義経に本当によく尽くし、義経のために戦い、討死しています。それはある意味、秀衡の意志の体現でもあった、と私はみたいですね。
ともかくも義経は平泉を旅立ち、黄瀬川の陣で頼朝の軍勢と合流します。頼朝は涙を流してこの異母弟を迎えたといいますから、素直に嬉しかったのでしょう。
この時点では…。
頼朝と義経の合流から僅か半年後、仇敵平清盛があっけなく病死してしまいます。その後源氏勢と平氏勢とはにらみ合いのこう着状態が続き、義経が活躍する機会はなかなか訪れませんでした。それから約二年半後、木曽義仲追討の宣旨を受け、ようやく義経は活躍の機会を得ます。義仲追討を果たした後、義経は怒涛の勢いで一の谷、屋島と平氏勢を追い詰め、ついには壇ノ浦で平氏を滅ぼすに至るわけですが、その転戦の過程で、どうやら頼朝は、義経を疎んじるようになっていったらしい。それは義経の天才的な軍略と、そしてなにより、人を引き付けるそのカリスマ性故であったでしょうか。ヘタをすれば、源氏棟梁の座が脅かされるやもしれぬ、と思ったのかも知れません。
男の嫉妬は怖い、とはよく言いますね。
ところで、一の谷の合戦において、義経は有名な「鵯越の坂落とし」、平氏本陣の背後の崖を、一気に馬で駆け降りるという奇襲攻撃を敢行しています。ここに義経の天才性をみるわけですが、このような奇襲を思いつく背景に、平泉があった、とみるのはどうでしょう?平泉藤原氏初代、藤原清衡の母は安倍貞任の妹です。奥州安倍氏は蝦夷(えみし)と呼ばれた古代東北人に連なる一族と考えられており、蝦夷の戦い方は少数の軍勢でその数倍の大軍を打ち破る、ゲリラ戦術です。アテルイの軍が朝廷軍を打ち破った巣伏の戦いなどはその代表的な例ですが、あるいは義経は平泉において、そのような話を散々聞かされていたのかも知れません。あるいは奥州の山野を駆けまわるうちに、戯れに馬で崖を駆け降りるような遊びをして、自然とそのような技を身に着けていたかも知れない。いずれも記録等は一切残っておらず、私の単なる想像といってしまえばそれまでですが、あり得ない話ではないです。
屋島の合戦においては、嵐の中を渡海して、平氏勢の背後に回り、やはり少数の軍勢でその数倍の平氏勢を打ち破っています。嵐の海を猛然と渡って行く勇猛ぶりは、かつて朝廷軍や源氏の軍勢を相手に、勇猛果敢に戦った蝦夷達を彷彿とさせます。秀衡は少年時代の義経に、この“蝦夷の片鱗”を見い出し、それを愛したのではないでしょうか。それは大都会・平泉に住む人々が忘れかけていた蝦夷魂。その魂を義経の中に見た。平泉に何かあった時、頼りになるのは義経を置いて他にないかもしれぬ。秀衡はそう思っていたことだろうと、想像します。
さて、壇ノ浦の合戦において、ついに平氏は滅亡します。それだけではなく、幼い安徳帝とその母・建礼門院徳子は共に入水、母親が我が子を連れて、自らの意志で海に飛び込んだということです。そして三種の神器の一つ草薙剣もまた道連れに、海に沈んだと伝えられています。
このことを義経のせいであるかのようにおっしゃる方がおられますが、はたしてそうでしょうか?
そもそも平氏はなぜ、幼き帝や女たちを戦場に伴ったのでしょうか?平氏は彦島に陣を敷いており、そこで帝をお守りした方がよほど理にかなうはずです。おんなこどもなど、戦場においては足手纏いになるだけ。なのになぜ、わざわざ戦場に伴ったのか。それに、建礼門院は“自らの意志で”わが子を道連れとしたのであって、これは義経が救う救わないとかいうことではない。もはや初めから死ぬつもりだった。幼帝を道連れにすることが、すなわち平氏のプライド、ということだったのでしょう。
私はここに、平氏の傲慢を見ます。
安徳帝の母・建礼門院徳子は平清盛の娘。つまり安徳帝は清盛の孫にあたる。清盛は天皇の外祖父となった。これはかつての藤原道長が用い、その後藤原摂関家が権力を握る手段としたのと同じ方法です。天皇はいまや平氏の身内。
だから、平氏が滅びるときは、天皇もまた滅びるべき。天皇が滅びるということは、日本が滅びること。
ならば日本も
滅びてしまえ!
これは平氏の傲慢が齎した悲劇です。さすがの義経でも、帝をお救いまいらせることは難しかったでしょう。
義経に責任はない、と断じます。実際この件で、義経が責めを負わされたという形跡はどこにも窺えません。誰もがみな、義経に責任のないことはわかっていたということです。このことをもって、頼朝が天罰を恐れ、義経を追いやったなど、私には到底考えられません。
壇ノ浦の勝利をもって、義経の栄光は頂点に立ったかにみえました。しかしこの後、
義経は、一気に頂点から転がり落ちて行きます。
しかし往々にして、平泉のことを“忘れている”と思われるような発言をされる方が多いと感じるのは、私だけでしょうか。
16歳から22歳までのおよそ6年余。人生の最も多感な時期を過ごした平泉での日々、その日々が義経になんらの影響も与えていないなどあり得ない。寧ろ多大な影響を与えたと考えるのが当然でしょう。にもかかわらず、まるで平泉のことなど意にも介していないような発言をされる方々は、いったいなんなのでしょう?
まあ良いです。人は人、馬は馬。
私は私。
伊豆に幽閉されていた源頼朝が挙兵したとの報が、いつどのような形で義経に齎されたものか、一切の記録が残されていないのでわかりませんが、義経はこの報せを受け、いてもたってもいられずに平泉を出ようとします。この時の秀衡の心情はどのようなものであったのでしょうか。せっかくの手駒を、ここで手放すのはもったいない、とでも思ったでしょうか。あるいはそれもあったかも知れません。しかし、旅立つ義経に対し、平泉屈指の武将、佐藤継信・忠信兄弟を従者に付けて送り出しているところからみても、そこには親子に近い情愛があった、と読むのは甘いでしょうか。佐藤兄弟は義経に本当によく尽くし、義経のために戦い、討死しています。それはある意味、秀衡の意志の体現でもあった、と私はみたいですね。
ともかくも義経は平泉を旅立ち、黄瀬川の陣で頼朝の軍勢と合流します。頼朝は涙を流してこの異母弟を迎えたといいますから、素直に嬉しかったのでしょう。
この時点では…。
頼朝と義経の合流から僅か半年後、仇敵平清盛があっけなく病死してしまいます。その後源氏勢と平氏勢とはにらみ合いのこう着状態が続き、義経が活躍する機会はなかなか訪れませんでした。それから約二年半後、木曽義仲追討の宣旨を受け、ようやく義経は活躍の機会を得ます。義仲追討を果たした後、義経は怒涛の勢いで一の谷、屋島と平氏勢を追い詰め、ついには壇ノ浦で平氏を滅ぼすに至るわけですが、その転戦の過程で、どうやら頼朝は、義経を疎んじるようになっていったらしい。それは義経の天才的な軍略と、そしてなにより、人を引き付けるそのカリスマ性故であったでしょうか。ヘタをすれば、源氏棟梁の座が脅かされるやもしれぬ、と思ったのかも知れません。
男の嫉妬は怖い、とはよく言いますね。
ところで、一の谷の合戦において、義経は有名な「鵯越の坂落とし」、平氏本陣の背後の崖を、一気に馬で駆け降りるという奇襲攻撃を敢行しています。ここに義経の天才性をみるわけですが、このような奇襲を思いつく背景に、平泉があった、とみるのはどうでしょう?平泉藤原氏初代、藤原清衡の母は安倍貞任の妹です。奥州安倍氏は蝦夷(えみし)と呼ばれた古代東北人に連なる一族と考えられており、蝦夷の戦い方は少数の軍勢でその数倍の大軍を打ち破る、ゲリラ戦術です。アテルイの軍が朝廷軍を打ち破った巣伏の戦いなどはその代表的な例ですが、あるいは義経は平泉において、そのような話を散々聞かされていたのかも知れません。あるいは奥州の山野を駆けまわるうちに、戯れに馬で崖を駆け降りるような遊びをして、自然とそのような技を身に着けていたかも知れない。いずれも記録等は一切残っておらず、私の単なる想像といってしまえばそれまでですが、あり得ない話ではないです。
屋島の合戦においては、嵐の中を渡海して、平氏勢の背後に回り、やはり少数の軍勢でその数倍の平氏勢を打ち破っています。嵐の海を猛然と渡って行く勇猛ぶりは、かつて朝廷軍や源氏の軍勢を相手に、勇猛果敢に戦った蝦夷達を彷彿とさせます。秀衡は少年時代の義経に、この“蝦夷の片鱗”を見い出し、それを愛したのではないでしょうか。それは大都会・平泉に住む人々が忘れかけていた蝦夷魂。その魂を義経の中に見た。平泉に何かあった時、頼りになるのは義経を置いて他にないかもしれぬ。秀衡はそう思っていたことだろうと、想像します。
さて、壇ノ浦の合戦において、ついに平氏は滅亡します。それだけではなく、幼い安徳帝とその母・建礼門院徳子は共に入水、母親が我が子を連れて、自らの意志で海に飛び込んだということです。そして三種の神器の一つ草薙剣もまた道連れに、海に沈んだと伝えられています。
このことを義経のせいであるかのようにおっしゃる方がおられますが、はたしてそうでしょうか?
そもそも平氏はなぜ、幼き帝や女たちを戦場に伴ったのでしょうか?平氏は彦島に陣を敷いており、そこで帝をお守りした方がよほど理にかなうはずです。おんなこどもなど、戦場においては足手纏いになるだけ。なのになぜ、わざわざ戦場に伴ったのか。それに、建礼門院は“自らの意志で”わが子を道連れとしたのであって、これは義経が救う救わないとかいうことではない。もはや初めから死ぬつもりだった。幼帝を道連れにすることが、すなわち平氏のプライド、ということだったのでしょう。
私はここに、平氏の傲慢を見ます。
安徳帝の母・建礼門院徳子は平清盛の娘。つまり安徳帝は清盛の孫にあたる。清盛は天皇の外祖父となった。これはかつての藤原道長が用い、その後藤原摂関家が権力を握る手段としたのと同じ方法です。天皇はいまや平氏の身内。
だから、平氏が滅びるときは、天皇もまた滅びるべき。天皇が滅びるということは、日本が滅びること。
ならば日本も
滅びてしまえ!
これは平氏の傲慢が齎した悲劇です。さすがの義経でも、帝をお救いまいらせることは難しかったでしょう。
義経に責任はない、と断じます。実際この件で、義経が責めを負わされたという形跡はどこにも窺えません。誰もがみな、義経に責任のないことはわかっていたということです。このことをもって、頼朝が天罰を恐れ、義経を追いやったなど、私には到底考えられません。
壇ノ浦の勝利をもって、義経の栄光は頂点に立ったかにみえました。しかしこの後、
義経は、一気に頂点から転がり落ちて行きます。
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