風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

会津松平家初代当主・保科正之 ~3~

2013-01-28 23:28:22 | 会津藩
三代将軍・徳川家光が臨終を迎えた時、後を継ぐ家綱はまだ11歳。後見が必要と考えた家光は、床に伏したまま正之の手を取り、涙ながらに家綱を頼むと遺言しました。
二代・秀忠が将軍を拝命した時は、大御所・家康が存命だったし、家光の時は秀忠がいてくれた。だが家綱には誰もいない。後を託せるのは、”至誠の人"保科正之しかいないと、家光は考えたのです。家綱は言わば“孤児”、その孤児を託すというのが将軍の遺命だった。
会津ではこれを「託孤の遺命」といいます。
大命を拝した正光は、そのまま家綱の住む江戸城西の丸へ走って行きました。以後、正之は将軍を輔弼する後見役として、幕政に大きく関与していきます。そうなると、会津にはそうそう帰ることは出来なくなる。事実正之はこれより以後23年間、会津へ帰ることはありませんでした。
その間の藩政は、高遠以来の家老、家臣たちが、正之の意志を守ってしっかりと支えていたようです。

では正之の事績を見て行きましょう。
正之の最初の大事業は、玉川上水の掘削です。当時の江戸は水の便が非常に悪かった。元々海だったところを埋め立てて造った町ですから、井戸を掘っても塩分を含んだ水が出てくる。しかも将軍家お膝元ということで、各地より人が押し寄せ、人口が爆発的に増えてくる。水問題の解決は必至でした。
玉川上水は現在の東京都羽村市を流れる多摩川を水源として、新宿区四谷までの約43キロを結ぶものです。当時はまだ戦国の気風が残っておりましたので、そんなものを作ったら、敵がそれを利用して逆上ってくるのではないか?と時代錯誤なことを言う幕閣もいました。これに対し、正之はこう反論します。
「一国一郡の小城は堅固なるを以て主とす。天下府城は万民の便利安居を以て第一とす」(『会津松平家譜』)
つまり、万民が安心して暮らせるようにするのが政治だろ?ってことを言ってるわけですね。敵が来るの来ないの言ってる時代かよ?バーカ!…とまでは言ってないでしょうけど(笑)
玉川上水によって、それまで陸稲しか出来なかった地域で、水田耕作が可能となり、新田が開発されて行きます。関東平野の水田風景は、保科正之の一大事業によって作られたと言っていい。

明暦3年(1657)、江戸市中は大火に見舞われます。明暦の大火いわゆる振袖火事です。
江戸の大半が焼け、焼死者は一説に10万人。炎は江戸城にも達し、本丸、二の丸、三の丸、そして天守閣まで焼失してしまいました。
映画「魔界転生」(昭和版)では、この燃える天守閣の中で、千葉真一演じる柳生十兵衛と、若山富三郎演じる柳生但馬守宗矩との決闘シーンがありました。若山さんの殺陣は素晴らしかった…また話が逸れましたね、こいつは失礼。
話を戻しましょう。この大火でも、正之は見事な危機管理能力を発揮します。あわてふためく幕閣が、将軍を上野寛永寺にお移りいただこうとすると、正之はそれを止め、まだ焼けていない西の丸へ将軍を御動座させます。敵が責めてきたわけでもないのに、将軍が城を逃げ出したのでは、幕府の威厳に傷がつく。将軍を外に出してはいけないと、瞬時に冷静な判断を下したわけです。非常時にあっての冷静な判断力。見事という他はないですね。
この大火時、浅草の近くの蔵前にあった幕府の米蔵にも火が回りそうになっていました。到底消火活動は間に合わず、このままでは米が焼けてしまう。そこで正之は、どうせ焼けるくらいなら、避難民に分けてしまった方がましだと、「蔵前の米蔵の米は取り放題だ!」という触れをだすんです。これによって避難民達に、少しでも食料が回れば良いとの判断でした。これまたお見事!

大火の後、正之は焼け出された町方の者たちに、幕府から救援金として16万両を支出し、旗本・御家人にも作事料を与えようと即断します。非常に大きな支出ですので、幕閣の中には幕府の金蔵が空になってしまうと心配する向きもありましたが、「こういう時に使わなくていつ使うんだ!?」と反論したとか。
その他、火除け地を作ったり、隅田川に新たに両国橋を架け、避難路を確保したりと、防災の面でも活躍。中でも白眉は江戸城天守閣の再建を中止したことです。天守閣などいくさの上では大した意味を持たない。権威を示すことの他には、さほど役にはたたず、そんなものを建てる金があるなら、江戸町民の救済に回すべき、という理由からでした。以来現在に至るまで、江戸城(皇居)に天守閣はありません。
まったく、どこかの国の官僚に聞かせてやりたい話です…(苦笑)

徳川幕府の安泰と天下泰平を築き上げるために、正之は私心を捨てて邁進します。実は明暦の大火の時、正之の長男正頼が風邪を拗らせて亡くなってしまったのですが、葬儀の後正之は、喪に服さなくて良いとする命令を、将軍に出してもらうようお願いするんです。そうしてすぐに、江戸町民救済活動の現場に復帰します。天下国家のため、己を空しゅうして働く。
正之とは、そういう人物でした。

ここで正之の事績の中でも、特に「三大美事」と言われる政策をご紹介しましょう。
「末期養子の禁止の緩和」末期養子とは、当主が急逝する寸前などに、周囲で慌てて決めた養子をいいます。これが認められないと、後継ぎがいないためその家は取り潰しとなってしまい、大量の浪人が発生してしまい、世の治安の乱れの基となります。事実家光の時代には、軍学者の由井正雪が浪人を集めて反乱を起こそうとした事件が発生しています。そこで正之は、これを当主が50歳までなら末期養子を認めることとしたのです。これによって浪人の大量発生を抑え、また諸大名に浪人達を積極的に雇用するよう促すことによって、浪人の数を減らしたのです。
「大名証人制度の廃止」証人とは要するに人質のことです。大名の妻子は幕府への忠誠の証しとして、江戸に在住させる、これが証人の意味です。この制度では主要35藩の家老の嫡子も、やはり「証人」として江戸在住を義務付けられていました。正之はこの主要35藩…の部分のみを廃止しました。ですから大名の妻子の江戸在住自体は幕末まで継続されたわけですね。これが美事なのか?という疑問も生じますが、徳川幕府の安泰を第一とする正之としては、これが精一杯だったのでしょう。
「殉死の禁止」主君が亡くなった時に、家臣が後を追って追い腹を斬ることを殉死といいます。これの禁止は、まあ当然でしょうね。

では最後に、会津藩における正之の事績を紹介しましょう。一番大きな事績は「社倉制度」でしょうか。これはつまり食料備蓄制度のことで、飢饉などの非常時に備えて米を備蓄しておき、これを貸し出す際には、翌年豊作の場合は2割の利子をつけて返してもらい、翌年凶作の場合は返さなくて良いという制度を作りました。これによって会津では、飢饉の際にもほとんど餓死者は出なかったようです。
その他、90歳を越えた者には、身分に関係なく一人扶持を与えるという福祉政策や、行き倒れの者がいたら必ず助けること、治療費がなければ藩で負担するという救急医療制度ともいうべき法令を発布します。また間引きの禁止や残酷な刑の執行の禁止など、武断政治から文治政治への移行を促し、当時としてはかなり人道主義的ともいうべき政策を実行した人物。
それが会津藩初代藩主・保科正之です。

晩年の正之は視力を失い、職を辞することを願いでましたが、将軍家綱はこれを許さず、城内で輿に乗ることを許し、参内させました。それほどに将軍の信頼を得、必要とされていたということです。その証拠に将軍と同じ色の直垂を着ることを許され、行列の人数も将軍と同じにするよう命じられていました。まさに副将軍の格を与えられていたわけです。
江戸幕藩体制の確立に尽力した保科正之は、寛文12年(1673)江戸は三田の会津藩邸にて永眠します。享年62歳。


正之の思想の根底にある“神儒一致思想”。
そして正之の思想の体系である『家訓15ヶ条』については、次章にて。



参考文献
『会津武士道』
中村彰彦著
PHP文庫

『会津の悲劇に異議あり』
八幡和郎著
晋遊舎新書

『日本人の魂と新島八重』
櫻井よしこ著
小学館101新書

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ありがとう御座います。 (よしの@)
2013-01-29 10:48:58
日本人として、東北人として、福島県民として、誇りに思います。保科正之さまは、凄いおひとだー!とビックリしました。わおー、生年月日に目がてんになりました。実践による、御手本の前には、力合わせたくなりますね。?私が読んでいた、漫画とは?まー立場方向の違いですね。人は、薫風亭さんの、おしゃるとうり、歴史から学ぶは、徳かと、思いました。少しだけ。m(__)m漢字がいっぱいでないので、とても助かります。ていのうのため、難しのは、わかりません。いつか、お墓参りに行きたいと思いました。ありがとう御座います。お疲れ様です。
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Unknown (薫風亭)
2013-01-29 17:32:55
よしの@さん、まあ保科正之だって人間ですから、色々角度を変えて見れば、失敗も間違いも多々犯しているとは思いますけどね。この方を名君と讃える方々は多いですが、それに異を唱える方もいます。色々あっていいと思いますが、私としては、色々差し引いたとしても、やはり顕彰するに値する方だろうと思っています。
いつもありがとうございます。
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