源九郎義経は、源氏の棟梁源義朝とその愛妾常盤御前との間に生まれた子です。正室の子でないとはいえ、源氏の棟梁家の血を引く立派な御曹司。いずれまた源氏が兵を挙げるに際しては、その先頭に立つに相応しい血筋です。当時は血統というものが今以上に尊ばれていましたから、その行く末は源氏の残党にとって相当に高い関心事であったはずです。
幼少の義経=牛若(入山後、遮那王を名乗る)が鞍馬寺に預けられたのは10歳前後頃のことのようです。初めの内は学問に励んでいたいたようですが、ある日突然学問を捨て、夜な夜な鞍馬山中において、武芸の訓練に明け暮れるようになった。…と、軍記物などには書かれているようです。軍記物ですので、どこまで本当かはわかりません。ただ、何者かが遮那王出生の秘密=源氏の棟梁の子であることを、遮那王に漏らしたとしたら、己の出自に目覚めた遮那王が、平家への復讐心から憤然と武芸に励むのは当然有り得ることでしょうね。さて、その漏らした何者か、とははたして、源氏の残党か、はたまた…。
いずれにしろ鞍馬の山中ということで、天狗や魔物の憑依があったやもしれず。それが「八艘跳び」などの体術に繋がる一方、後年の悲劇へと繋がっていったのかもしれません。
義経の母、常盤御前は義朝の死後、子供達(今若、乙若、牛若)の命を助けることを条件に、平清盛の愛妾となりますが、愛妾だった期間はさほど長くはなかったようで、常盤御前はその後すぐに、元大蔵卿・藤原長成という人物に嫁ぎます。その経緯はよくわかりませんが、最初乳飲み子だった牛若が清盛の下にいたのは、せいぜい2~3歳くらいまでのことのようです。大河ドラマで牛若が、清盛のことを父と慕うシーンがありますが、はたして牛若に、清盛の記憶があったかどうか。
さて、牛若=遮那王は16歳になっても剃髪・出家をしようとしない。仏門に入ることを条件に命を助けられているので、このままでは清盛との約束が果たせない。あるいは鞍馬寺の僧侶あたりが、常盤御前に「なんとかしてくれ!」と相談を持ちかけたかもしれません。常盤としても、このまま放っておいたのでは遮那王自身の身はもちろんのこと、夫・長成卿の身にもどのような類が及ぶかしれない。そこで、ある人物が思い浮かんだのでしょう。
その人物とは藤原基成。元陸奥守。陸奥守の任期が切れた後もそのまま奥州に住みつき、その娘を奥州平泉藤原氏三代・藤原秀衡に嫁がせ、自らも政治顧問格として平泉で権勢を振るう人物。
この藤原基成は、常盤の夫長成とは極近い親戚なんです。奥州平泉ならば、京の都から遥かに遠く、また17万騎ともいわれる大軍勢を擁し、いかな平家といえども、地理的政治的軍事的に、簡単には手を出し難い相手。遮那王を逃がすに、これほどうってつけの場所はない。
また藤原基成にも、遮那王に対してはある種の負い目があったのではないかと思われます。というのは、基成の弟に藤原信頼という人物がいるのですが、この人物、実はかの源義朝、遮那王の父義朝と結託して平治の乱を起こした張本人だったのです。
いってみればこの信頼のせいで、義朝は敗死したともいえるわけで、弟の行為が遮那王達を過酷な運命に追いやってしまったことを、ずっと気にかけていたのかもしれません。
だから基成は、遮那王を平泉に預けたいとの連絡を受け、必死になって秀衡を説得したのではないでしょうか。秀衡にしてみれば、せっかく朝廷や平家とも、駆け引きをしながら上手くやってきたのに、徒となるかもしれない源氏の子倅をなんで預かる必要があるのか?と思ったことでしょうが、あるいは基成の心情に配慮しつつ、最終的には、源氏と平氏双方への“保険”世の趨勢がどちらに転んでもうまく切り抜ける“切り札”として、遮那王=後の義経を預かることとしたと思われます。
こうして遮那王=義経は鞍馬山を脱走し、金売吉次なる金属商人(実在不明)に伴われ、一路平泉を目指します。遮那王16歳。その波乱の生涯の本格的なスタートでした。
幼少の義経=牛若(入山後、遮那王を名乗る)が鞍馬寺に預けられたのは10歳前後頃のことのようです。初めの内は学問に励んでいたいたようですが、ある日突然学問を捨て、夜な夜な鞍馬山中において、武芸の訓練に明け暮れるようになった。…と、軍記物などには書かれているようです。軍記物ですので、どこまで本当かはわかりません。ただ、何者かが遮那王出生の秘密=源氏の棟梁の子であることを、遮那王に漏らしたとしたら、己の出自に目覚めた遮那王が、平家への復讐心から憤然と武芸に励むのは当然有り得ることでしょうね。さて、その漏らした何者か、とははたして、源氏の残党か、はたまた…。
いずれにしろ鞍馬の山中ということで、天狗や魔物の憑依があったやもしれず。それが「八艘跳び」などの体術に繋がる一方、後年の悲劇へと繋がっていったのかもしれません。
義経の母、常盤御前は義朝の死後、子供達(今若、乙若、牛若)の命を助けることを条件に、平清盛の愛妾となりますが、愛妾だった期間はさほど長くはなかったようで、常盤御前はその後すぐに、元大蔵卿・藤原長成という人物に嫁ぎます。その経緯はよくわかりませんが、最初乳飲み子だった牛若が清盛の下にいたのは、せいぜい2~3歳くらいまでのことのようです。大河ドラマで牛若が、清盛のことを父と慕うシーンがありますが、はたして牛若に、清盛の記憶があったかどうか。
さて、牛若=遮那王は16歳になっても剃髪・出家をしようとしない。仏門に入ることを条件に命を助けられているので、このままでは清盛との約束が果たせない。あるいは鞍馬寺の僧侶あたりが、常盤御前に「なんとかしてくれ!」と相談を持ちかけたかもしれません。常盤としても、このまま放っておいたのでは遮那王自身の身はもちろんのこと、夫・長成卿の身にもどのような類が及ぶかしれない。そこで、ある人物が思い浮かんだのでしょう。
その人物とは藤原基成。元陸奥守。陸奥守の任期が切れた後もそのまま奥州に住みつき、その娘を奥州平泉藤原氏三代・藤原秀衡に嫁がせ、自らも政治顧問格として平泉で権勢を振るう人物。
この藤原基成は、常盤の夫長成とは極近い親戚なんです。奥州平泉ならば、京の都から遥かに遠く、また17万騎ともいわれる大軍勢を擁し、いかな平家といえども、地理的政治的軍事的に、簡単には手を出し難い相手。遮那王を逃がすに、これほどうってつけの場所はない。
また藤原基成にも、遮那王に対してはある種の負い目があったのではないかと思われます。というのは、基成の弟に藤原信頼という人物がいるのですが、この人物、実はかの源義朝、遮那王の父義朝と結託して平治の乱を起こした張本人だったのです。
いってみればこの信頼のせいで、義朝は敗死したともいえるわけで、弟の行為が遮那王達を過酷な運命に追いやってしまったことを、ずっと気にかけていたのかもしれません。
だから基成は、遮那王を平泉に預けたいとの連絡を受け、必死になって秀衡を説得したのではないでしょうか。秀衡にしてみれば、せっかく朝廷や平家とも、駆け引きをしながら上手くやってきたのに、徒となるかもしれない源氏の子倅をなんで預かる必要があるのか?と思ったことでしょうが、あるいは基成の心情に配慮しつつ、最終的には、源氏と平氏双方への“保険”世の趨勢がどちらに転んでもうまく切り抜ける“切り札”として、遮那王=後の義経を預かることとしたと思われます。
こうして遮那王=義経は鞍馬山を脱走し、金売吉次なる金属商人(実在不明)に伴われ、一路平泉を目指します。遮那王16歳。その波乱の生涯の本格的なスタートでした。