山崎闇斎という神道家は、吉川神道の創始者吉川惟足の弟子です。
吉川神道とは、簡単にいうと神道の精神を儒学によって体系化したもの、とでも言えばよろしいでしょうか。「神儒一致」などとも言われますが、必ずしも神道と儒教を同格とはしていません。あくまでも万教の根本は神道であるとし、その神道の精神の根本に忠臣の道を置いたところに特徴がある、といえるようです。国体の護持と忠臣の道こそが神道の本質である、これが吉川神道の根本理念のようです。
また、天地万物を主宰する神の神性は、すべての人間の心に内在する…とも説いています。
山崎闇斎はこの吉川神道をさらに発展させた垂加神道を創始します。
闇斎の提唱する神道は、「天日一体の皇祖神、天照大神の子孫である天皇陛下を輔翼して臣子の分を尽くす」信仰であると断じ、天皇崇拝、皇室の絶対化を主張、国学や水戸学の原流となり、幕末の尊王討幕運動や王政復古運動の思想的原動力となりました。
詳しくはこちらをご参照ください。
http://1gen.jp/1GEN/NAN/J5.HTM
保科正之はこの山崎闇斎を師事しており、垂加神道の奥義を伝授された、とも伝えられています。
自分を取り立ててくれた徳川宗家に対する恩義と、この垂加神道とが組み合わされたものが、正之の思想行動の根本原理となった。徳川宗家への忠臣としての道を尽くすことが、ひいては天皇陛下の御為であり、天下国家のためとなる。正之の中では、徳川宗家への忠節と、天下万民の平穏な生活とは同列だった、と考えて良いのではないでしょうか。そしてなにより、天下国家の中心には天皇がおわします。徳川宗家への忠節と万民の平穏へ尽くすことこそが、尊王へと繋がって行くのだ、と、強烈に信じていた。正之の行動原理はここにあったのだ。
会津藩主に代々伝えられた神道奥秘「四弓再奥伝秘」。武備の在り方を弓に例え、一の伝、二の伝、三の伝、奥秘の伝の四つの弓の教えがあります。
一の伝「座陣弓」。兵を動かさずに天下を治めるために備える弓。
二の伝「発向弓」。逆賊があらわれた場合に直ちに発動する弓。
三の伝「護持弓」。治安を良くするための弓。
奥秘の伝「治世弓」。座陣弓、発向弓、護持弓が混然一体となったとき、平和な治世を確定するために出現する弓。
保科正之は、まさにこの「治世弓」の人だった、と言えるのではないでしょうか。
この垂加神道や「四弓再奥伝秘」を根本理念として書かれたものが、『会津藩家訓』です。ここに会津武士道の神髄が込められており、幕末の会津の悲劇の基ともなったわけです。
では、『会津藩家訓』十五ヶ条を見ていきましょう。
【会津藩家訓】
一、大君の義、一心大切に忠勤を存ずべく列国の例を以て自ら処るべからず
若し二心を懐かば、即ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず
一、武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。上下の分、乱るべからず
一、兄を敬い、弟を愛すべし
一、婦人女子の言、一切聞くべからず
一、主を重んじ、法を畏るべし
一、家中は風儀を励むべし
一、賄を行い、媚を求むべからず
一、面々、依怙贔屓(えこひいき)すべからず
一、士を選ぶに便僻便侫(べんぺきべんねい)の者を取るべからず
一、賞罰は家老の外、これに参加すべからず。若し出位のものあらば、これを厳格にすべし
一、近侍の者をして、人の善悪を告げしむるべからず
一、政事は利害を以て道理を枉ぐべからず。詮議は私意を挟みて人言を拒むべからず
思う所を蔵せず、以てこれを争うべし。甚だ相争うと雖も我意を介すべからず
一、法を犯す者は宥すべからず
一、社倉は民のためにこれを置き、永く利せんとするものなり。歳餓うれば即ち発出してこれを済うべし
これを他用すべからず
一、若し志を失い、遊楽を好み、馳奢を致し、士民をしてその所を失わしめば、
即ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや。必ず上表して蟄居すべし
右十五件の旨、堅くこれを相守り似往もって同職の者に申し伝うべきものなり
寛文八年戌申四月十一日 会津中将
家老中
第一条の大君とは徳川宗家のことですが、先述したようにその先には天下万民が居り、さらにその先には天皇がおわす。徳川宗家への忠臣の道が皇国を守ることになるとして、これをすべての家臣子々孫々に至るまで徹底させ、守らない者は我が子孫ではないので従うなとまで言い切っています。他藩がどのような行動をとろうとも、我が会津藩はひたすら徳川宗家に忠節を尽くす。
幕末の会津藩の行動原理が、ここにあるといっていいでしょう。
第四条は女性蔑視的にもとれますし、やはり時代的な背景は大いにあるでしょう。ただこれには伏線があります。
正之の側室から継室となった於万の方が、他の側室の産んだ姫の嫁ぎ先に嫉妬して、その姫の毒殺を図ります。しかし誤って自分が産んだ姫を殺めてしまったという事件があったのです。以来女性が政治に口出しすること等を極度に嫌うようになったらしいですね。なにやら於万の方が哀れですが…。
第六条の風儀とは、マナー、礼儀ですね。
第九条の「便僻便侫の者」とは、要するにロクでもない奴ということです。コネなんかで取り立てず、相応しい人、正しい人を取り立てよ、ということです。
第十一条は聖徳太子の十七条憲法「和をもって貴しとなす」と同様の意味を語っています。政治にしろ論争にしろ、我を挟まずに道理をもってあたれば、治まるべき所へ治まる、ということです。
この十五の条文が、会津藩のいわば憲法となって、藩士達の生き方を規定していく。後に述べる「什の掟」もこの家訓をもとにして作られました。
忘れてならないのは、この家訓の根底には、神道の精神と尊王思想が流れているということです。会津藩士達は、骨の髄まで尊王だった、と言っていい。
このような方達が、何故朝敵などに成り得ましょうや?
まだまだ、続きます。
参考文献
『会津武士道』
中村彰彦著
PHP文庫
『日本人の魂と新島八重』
櫻井よしこ著
小学館101新書
吉川神道とは、簡単にいうと神道の精神を儒学によって体系化したもの、とでも言えばよろしいでしょうか。「神儒一致」などとも言われますが、必ずしも神道と儒教を同格とはしていません。あくまでも万教の根本は神道であるとし、その神道の精神の根本に忠臣の道を置いたところに特徴がある、といえるようです。国体の護持と忠臣の道こそが神道の本質である、これが吉川神道の根本理念のようです。
また、天地万物を主宰する神の神性は、すべての人間の心に内在する…とも説いています。
山崎闇斎はこの吉川神道をさらに発展させた垂加神道を創始します。
闇斎の提唱する神道は、「天日一体の皇祖神、天照大神の子孫である天皇陛下を輔翼して臣子の分を尽くす」信仰であると断じ、天皇崇拝、皇室の絶対化を主張、国学や水戸学の原流となり、幕末の尊王討幕運動や王政復古運動の思想的原動力となりました。
詳しくはこちらをご参照ください。
http://1gen.jp/1GEN/NAN/J5.HTM
保科正之はこの山崎闇斎を師事しており、垂加神道の奥義を伝授された、とも伝えられています。
自分を取り立ててくれた徳川宗家に対する恩義と、この垂加神道とが組み合わされたものが、正之の思想行動の根本原理となった。徳川宗家への忠臣としての道を尽くすことが、ひいては天皇陛下の御為であり、天下国家のためとなる。正之の中では、徳川宗家への忠節と、天下万民の平穏な生活とは同列だった、と考えて良いのではないでしょうか。そしてなにより、天下国家の中心には天皇がおわします。徳川宗家への忠節と万民の平穏へ尽くすことこそが、尊王へと繋がって行くのだ、と、強烈に信じていた。正之の行動原理はここにあったのだ。
会津藩主に代々伝えられた神道奥秘「四弓再奥伝秘」。武備の在り方を弓に例え、一の伝、二の伝、三の伝、奥秘の伝の四つの弓の教えがあります。
一の伝「座陣弓」。兵を動かさずに天下を治めるために備える弓。
二の伝「発向弓」。逆賊があらわれた場合に直ちに発動する弓。
三の伝「護持弓」。治安を良くするための弓。
奥秘の伝「治世弓」。座陣弓、発向弓、護持弓が混然一体となったとき、平和な治世を確定するために出現する弓。
保科正之は、まさにこの「治世弓」の人だった、と言えるのではないでしょうか。
この垂加神道や「四弓再奥伝秘」を根本理念として書かれたものが、『会津藩家訓』です。ここに会津武士道の神髄が込められており、幕末の会津の悲劇の基ともなったわけです。
では、『会津藩家訓』十五ヶ条を見ていきましょう。
【会津藩家訓】
一、大君の義、一心大切に忠勤を存ずべく列国の例を以て自ら処るべからず
若し二心を懐かば、即ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず
一、武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。上下の分、乱るべからず
一、兄を敬い、弟を愛すべし
一、婦人女子の言、一切聞くべからず
一、主を重んじ、法を畏るべし
一、家中は風儀を励むべし
一、賄を行い、媚を求むべからず
一、面々、依怙贔屓(えこひいき)すべからず
一、士を選ぶに便僻便侫(べんぺきべんねい)の者を取るべからず
一、賞罰は家老の外、これに参加すべからず。若し出位のものあらば、これを厳格にすべし
一、近侍の者をして、人の善悪を告げしむるべからず
一、政事は利害を以て道理を枉ぐべからず。詮議は私意を挟みて人言を拒むべからず
思う所を蔵せず、以てこれを争うべし。甚だ相争うと雖も我意を介すべからず
一、法を犯す者は宥すべからず
一、社倉は民のためにこれを置き、永く利せんとするものなり。歳餓うれば即ち発出してこれを済うべし
これを他用すべからず
一、若し志を失い、遊楽を好み、馳奢を致し、士民をしてその所を失わしめば、
即ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや。必ず上表して蟄居すべし
右十五件の旨、堅くこれを相守り似往もって同職の者に申し伝うべきものなり
寛文八年戌申四月十一日 会津中将
家老中
第一条の大君とは徳川宗家のことですが、先述したようにその先には天下万民が居り、さらにその先には天皇がおわす。徳川宗家への忠臣の道が皇国を守ることになるとして、これをすべての家臣子々孫々に至るまで徹底させ、守らない者は我が子孫ではないので従うなとまで言い切っています。他藩がどのような行動をとろうとも、我が会津藩はひたすら徳川宗家に忠節を尽くす。
幕末の会津藩の行動原理が、ここにあるといっていいでしょう。
第四条は女性蔑視的にもとれますし、やはり時代的な背景は大いにあるでしょう。ただこれには伏線があります。
正之の側室から継室となった於万の方が、他の側室の産んだ姫の嫁ぎ先に嫉妬して、その姫の毒殺を図ります。しかし誤って自分が産んだ姫を殺めてしまったという事件があったのです。以来女性が政治に口出しすること等を極度に嫌うようになったらしいですね。なにやら於万の方が哀れですが…。
第六条の風儀とは、マナー、礼儀ですね。
第九条の「便僻便侫の者」とは、要するにロクでもない奴ということです。コネなんかで取り立てず、相応しい人、正しい人を取り立てよ、ということです。
第十一条は聖徳太子の十七条憲法「和をもって貴しとなす」と同様の意味を語っています。政治にしろ論争にしろ、我を挟まずに道理をもってあたれば、治まるべき所へ治まる、ということです。
この十五の条文が、会津藩のいわば憲法となって、藩士達の生き方を規定していく。後に述べる「什の掟」もこの家訓をもとにして作られました。
忘れてならないのは、この家訓の根底には、神道の精神と尊王思想が流れているということです。会津藩士達は、骨の髄まで尊王だった、と言っていい。
このような方達が、何故朝敵などに成り得ましょうや?
まだまだ、続きます。
参考文献
『会津武士道』
中村彰彦著
PHP文庫
『日本人の魂と新島八重』
櫻井よしこ著
小学館101新書