大正6年(1917)9月8日、盛岡の報恩寺にて「戊辰戦争殉難者五十年祭」が盛大に執り行われました。
盛岡藩家老・楢山佐渡をはじめ、戊辰戦争によって亡くなった藩士たちの霊を弔うもので、主催者は当時政友会総裁だった原敬でした。
その原による祭文を刻んだ石碑が、もりおか歴史文化館の前に建てられています。
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同士相謀り旧南部藩士戊辰戦争殉難者五十年祭本日を以て挙行せらる、顧るに昔日も亦今日の如く国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや、戊辰戦役は政見の異同のみ、当時勝てば官軍負くれば賊との俗謡あり、其真相を語るものなり、今や国民聖明の沢に浴し此事実天下に明らかなり、諸氏以て瞑すべし、余偶々郷に在り此祭典に列するの栄を荷ふ、乃ち赤誠を披露して諸氏の霊に告ぐ
大正六年九月八日
旧藩の一人 原敬
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「戊辰戦役は政見の異同のみ」とは、政事を行うにおいて、その方法論に意見の違いがあっただけのこと、という意味です。昔も今も、誰も朝廷に弓を引こうなどと考えた者はいなかったのだ。
勝てば官軍負くれば賊という俗謡こそが、真実を表している。どこにも賊などはいない、盛岡藩は、盛岡藩士は決して賊に非ず!
こういったことが連綿と書かれているわけです。そうしてこの、盛岡藩が被った逆賊の汚名を雪ぐことこそが
原敬生涯の大望となるわけです。
ところで、薩長が主に中心となって断行された明治維新ですが、彼ら、特に長州の動きなどを観ておりますと、なにやら強迫観念にも似た、強烈な切迫感に駆られているように、私には思えます。
あるいは、彼ら長州だけが知り得た、日本の未来に関するとんでもない情報を得ていたのかもしれません。
このままだと日本は滅びる、というような。
もしそうであったとするなら、彼らの義を欠いた強引なやり口にも、なにか理解できる部分が出てくるような気はしますね。
なんとしてでも、日本の近代化を推し進めなければならない。なんとしてでも。
そのために利用できるものはなんでも利用した。あるいは海外の秘密結社と手を結んだりしたかもしれない。日本という国を存続させるために、彼らは遮二無二働いた。
時には皇室の権威すら、彼らは利用します。それがいわゆる
「錦の御旗」です。
鳥羽伏見の戦で掲げられた官軍の印、錦の御旗は、岩倉具視が京の染物屋に発注して作らせたもので、陛下より賜ったものでもなんでもないのです。しかしこの「錦の御旗」は絶大な効力を奏し、佐幕派は一挙に戦意を喪失してしまいます。将軍徳川慶喜などはショックを受けて江戸へ逃げ帰ってしまいました。
そうして彼らは、急速な近代化を断行するのに邪魔となりかねない旧勢力をなにがなんでもつぶそうと画策します。はじめは江戸を焼き払うことで、旧勢力の意気を削いでしまおうとしますが、これは山岡鉄舟や勝海舟がうまく運び、西郷隆盛は無血開城を受けざるを得なくなります。
こうなると、残るは会津藩および会津藩に味方する同盟勢力を、なんとしてでもつぶしてしまい、後々の禍根を断たねばならない。新政府軍は全精力を傾けて会津征討に乗り出すわけです。
すべては日本を存続させるため。
そのための急激な改革が、多くの血を流させたのだとしたら……。
今を生きる我々は勝者と敗者に関係なく、戊辰戦争で亡くなられた「全て」の方々、全ての「英霊」方に、哀悼と感謝の意を表さなければならない。
それが本当の「靖国」ではないのだろうか。
私はそう思いますね。
盛岡藩は戊辰戦争において最後まで戦い続け、「賊藩」のレッテルを貼られてしまいます。この辺の経緯については「幕末の盛岡藩」のカテゴリーの記事にて詳しく書いておりますので、そちらをご参照のほど。
家老・楢山佐渡はすべての責任を取って報恩寺にて切腹。佐渡が切腹した当日、法恩寺の周りを泣きながら巡っている12歳の少年がおりました。
幼名を健次郎。のちの原敬その人でした。
つづく
正しい部分もあれば間違った部分もそれぞれにあった。どちらか一方だけが正しいなんてことはないですし、もちろんどちらか一方だけが間違っているなんてこともなかった。みんな日本のことを思って戦った。だから、お互い様なんですよ。
結局、感謝の想いに集約されていくんですよね。ご先祖様にはただただ感謝しかないです。
「ありがとう」は今でも十分に言えますよ、大丈夫!!(笑)
慶喜さんは慶喜さんなりに頑張ったんだし、そんな申し訳なく思う事はないですよ(笑)それに水戸学が日本中の武士たちに浸透していたお蔭で、まず朝廷ありきの観念を武士たちが共有していた。だから戊辰戦争はあのレベルで踏みとどまったのだと思うんです。それがなかったら、もっと大規模な内乱に発展していた可能性は高かったと思う。
水戸=茨城の御蔭です。もっと胸を張っていい(笑)
盛岡藩主、南部氏の家紋は鶴、グルージャですから、ぐーさんともなにか縁があるのかな。なーんて(笑)
それはそれが真実であるからであり、また私の生まれも育ちもその中間地点の関西というのも少なからず関係しているのかなと…。私はきっと、薩摩のご先祖さま達を一手に背負って、過去からの間違いと正面から対峙しようとしているような気がしています。
お兄さまとのご縁がたとえ逆縁だったとしても…。本当に厄介な妹でごめんなさい…。でも最後には、お互い笑って「あがとう」って言いたいですね!
身を削った武士の方もいましたが、幕府が馬鹿殿に見える部分も九州地区からは見えたことも、それも正義かもしれません。みんな悪くなかった。
だから、生きろ、と言う道を作られたのかもしれません。だからといって東北の会津諸藩の悲劇は賊軍などとは言えません。
私達は感謝しか無い。すみません。なんか。
いつも思うんですけど、薫風亭さんは、ホントに語りが上手いですよね。映画の粗筋にしても、歴史の話にしても、、。
少ない文字数で上手に簡潔にまとめて無駄がない(私は、ダラダラ長くなる駄文系です)、でも、要点は外さない。いつも感心、敬服しているんです。このように口にしたことはありませんでしたが、もう何年も、です。
今日もまんまと術に落ちました。そして、最初に書いた、あの反応です。続きを楽しみにしています。
ただ維新後の版籍奉還とか廃刀令とか、きゅうげきな中央集権化と「国民皆兵」による国軍の創設と、その過程で多くの武士たち、それも新政府の側について働いた武士たちがどんどん取り残されていく。それで士族の反乱が各地で起こって、その最大のものが西南戦争だったわけでしょ?あまりにも急激すぎる改革が多くの血を流したわけで、なんでこんなに急いだんだろう?と思ったときに、なにか強迫観念みたいなものに追い立てられていたんじゃないか、そうな風にしか思えないんですよね。あくまで私の個人的な考えですが。
しかしそんなに簡単に予言を信じられるものかな〜??
よっぽど他に当たっている例がなければ信じられないと思うけど…。