古代メソポタミアの伝説的な王ギルガメッュの物語、「ギルガメッシュ叙事詩」には、英雄ギルガメッシュは森の精霊フンババを殺し、巨大な杉の木を伐り倒す、という件があるそうな。
巨大な杉の木とは、御神木のようなものでしょうか。精霊が守り、神宿る御神木を伐り倒すなどと、
なんと不敬で
恐ろしいことをしたものか……。
農耕の普及とともに、人々の間には階級差や貧富の差といった、社会内格差が生じ始めます。
権力を得た者はより強い権力を求め、富を得た者はより富むことを欲する。
そうした欲望は戦争の原因ともなり、また物質文明を発展させ、人々はより広い耕作地や文明を支える燃料を得るため、森の木々を伐採し始めます。
かつて森の恵みを享受し、森に感謝していた人類は、こうして森を失くしていった。
森の神々を、精霊たちを
殺していった……。
ギルガメッシュ叙事詩には、このような人類と大自然との対立が、神話的に描かれているとする研究者もおられるようです。
宮崎駿監督の映画『もののけ姫』には、この「ギルガメッシュ叙事詩」から着想を得たのではないかと思われるシーンがありますね。
タタラ場の女主エボシは、森の神シシ神が、巨神ダイダラボッチと化したところを狙って、その首を撃ち落とします。
タタラ製鉄は、鉄鉱石を溶かす熱量を得るために、多量の木炭を必要としました。
木炭を得るためには、森の木々を伐採しなければなりません。
それは、森の精霊や神々との対立を生んだ。
庶民を富ませ、幸せにするためにはこれしかないと信じ、エボシは森の神を殺すのです。
エボシとは、物質的な富や幸せを求め、自然を破壊し続けてきた人類の象徴、ある意味ギルガメッュなんですね。
人類は日本人も含め、こうして自然と対立し、森の神々を殺し、自然を破壊してきた。これが宮崎氏の主張なのでしょう。
しかしこの主張に、公然と反論した方がおりました。
宮崎氏と同じ、スタジオジブリの監督、高畑勲氏です。
高畑監督は自身の作品『おもひでぽろぽろ』において、山形県の紅花農家の自然との関わり方を描き、日本人は自然とうまく共生しながら生きてきたのだ、と主張しました。
決して、自然と対立ばかりをしてきたわけではない、と。
さて、どちらがより真実に近いのでしょう?
答えを解くカギは、日本の山の神信仰、中でも田の神信仰にあるのではないか。
私はそう、夢想するのです。
またまた、つづきます。(*Θ*)
森シリーズが始まって、まず最初に思い浮かんだのが、高校のコーラス部で歌った曲の歌詞でした。「森にけものがいなくなった日、森はひっそり息をひそめた。」、、、大会で良い成績を残せた、思い出の詰まった曲です。この歌詞は、谷川俊太郎さんの詩『空に小鳥がいなくなった日』。YouTubeで探したんですが、私達が歌ったのとは違う曲(作曲者が違う)しか見つからなくて残念。
それから、昨日の記事にコメントすべきかもしれませんが、〇〇民族などの先入観に関して、私が思い出したのは(また思い出話かい!)、『北の農民ヴァイキング』という本です。先生が出した本を授業で使うから学生に買わせるシステム(?)で。ヴァイキングというと、北欧の屈強な荒くれ者の武装集団が船に乗って襲ってくるイメージですが、それを「いや農民だよ」と、もう題名から教えてくれてる。
だから何、というわけでもなく、これといったオチもないんですが、珍しくちょっとコメしてみました〜。
ヴァイキングというのは、略奪行為、海賊行為も行ったけれども、それは寧ろ例外的で、普段は農民であり漁民であり、交易民だったようですね。
おそらく、いざとなった時の戦いぶりが勇猛果敢だったのでしょう。そういった目立つ部分ばかりが強調されて語り継がれ、ヴァイキングのイメージが出来上がったのではないでしょうかね。わかりませんけど。
ヴァイキングと云えば、『小さなヴァイキング、ビッケ』ですねえ(笑)。
そういえば、ビッケ一行はアメリカ大陸に渡って、インディアンと交流してましたっけ。実際ヴァイキングは、コロンブスよりもはるか以前から、アメリカ大陸の存在を知っていたという話がありますね。そういう地図も残っているとか。
まだまだ世界は謎がいっぱい。