古代ローマ人は「農耕民族」だったとか。
私は世界史はまったく詳しくありませんが、戦争をもって版図を拡大し、地中海全土に勢力を広げたローマの市民の、その多くは実は農民だった、のだそうです。
よく言いますよね、日本人は「農耕民族」で、西洋人は「狩猟民族」だと。
しかし物質文明というのは農耕の普及とともに発展したのであって、むしろ「純粋」な狩猟民族からは、物質文明は発展し難い。これはまさに歴史が証明しているわけです。
それに日本人だって狩猟は行っていたし、まったく肉を食べないなんてことはなかった。
パスタは何からできてるんですか?肉ですか?違うでしょ、小麦でしょ。
小麦を作ることを何と言うのですか?
農耕でしょうに。
前々から言ってますけど、今回ははっきり言わせていただきます。
「農耕民族」VS「狩猟民族」みたいな言い方は、大変いい加減なものです。唯々誤解を招くだけの、ある意味とても「罪深い」表現だと言わざるを得ません。
農耕民族が良くて、狩猟民族は野蛮だ的な意味で使われてるわけでしょ?じゃあアイヌは野蛮なんですか?エスキモーは?この方々はやたらと戦争したがるのですか?
むしろ逆です。アイヌは自ら戦争を仕掛けることなどなかった。すべてはシャモ(和人)の側から仕掛けたものです。ロシア人ゴローニンが記録しているように、アイヌは狩猟民族ですが、とても無欲な平和主義者だったのです。
大変失礼な話だと思いますよ、私は。
日本人も西洋人も、その文化の基本は農耕にある。しかしあえて違いを挙げるなら、
それは、「酪農及び畜産」でしょう。
酪農や畜産は、家畜を飼育して搾乳し、また食肉を得るわけで、これは動物を支配管理して、人間に都合のいいように育てていくやり方ですね。
対して日本では、酪農も畜産も発展しなかった。明治以降、西洋からそのノウハウを輸入するまで、ほぼまったく行われていませんでした。
農家では牛や馬を飼っている場合も多くありましたが、これは基本、農耕に使役するためであり、乳をとるわけではなく、ましてや食肉にするなど滅多になかった。
日本の農民にとって、牛馬は家族の一員でした。馬産地として有名な岩手県南部地方では、「南部曲がり家」と云われる家で、馬と人間とが一つ屋根の下で暮らしていたのです。
岩手県といえば、かつて蝦夷と呼ばれた人々が住んでいた土地です。古代の記録によれば、蝦夷は農耕を行わない狩猟民で、「野蛮人」だったとか。
その「野蛮人」の地において、このような文化の在り様。
これをどう思われますか?
それはともかく、こうした部分に、日本人と西洋人との「自然観」の違いがよく表れている、とは言えると思います。
つまり西洋人は、自然は人間の力で管理、支配できるもの、と捉えていた、という読み方は成り立つでしょうね。
確かに、日本人と西洋人の自然観は大きく違うし、これが文化の違いとなって大きく表れていることは事実です。しかしそれは、「農耕民族」VS「狩猟民族」みたいな、安易、というより、間違った文化観をもとに語られるべきではない!
誰が何と言おうと、これだけは、私は強く主張したい。
日本人は農耕民族で西洋人は狩猟民族。このような比較論は、
極めて安易でいい加減な間違いです!
さて、「森の神殺し」の話は次回からにします。今回はここまで。
農耕が普及した弥生時代に作られた銅鐸に刻印された「狩猟図」。
つづきます。(>Θ<)
酪農や、ミツバチによる農耕の豊かさをあらわしているのだと私は解釈しています。
博士のご指摘の通りならば、西洋の方々は、酪農、畜産も、農業も、人間の欲求通りに支配できる地こそ、楽園と目指していたのでしょうか。逆に言えば、これら食料に直結する全てが苦しい時代が多かったということかもしれませんね。
ところで、縄文時代は、栗の実が主食だったそうですが、どんな感じだったのでしょう。つぶして、ニョッキのような?太古の栗はそんなに甘くないでしょうから、小麦やトウモロコシの主食に近い食べ物だったのでしょうか。不思議です。
もしそうなら、栗の木は勝手に実がなるわけで、農耕の苦労はなかったのかも?
水稲ではなく陸稲の類はすでにあったようですし、狩猟採取及び栽培によって、縄文人の食料は賄われていたのでしょうね。
足るを知って満足する生活を続けている分には、これで十分生きていけた。それだけ日本は豊かで恵まれた自然に囲まれていたということでしょう。
でもこれでは、物欲があまり喚起されませんから、物質文明の発達は難しいでしょうね。
でもチーズやソーセージは美味な産地でしたねー!それと地元ビールも!あらら、何のハナシ?