慶応4年(1868)7月27日、南部盛岡藩の軍勢2千余は、秋田との国境、鹿角口へ向けて進軍。楢山佐渡は6百余の軍勢を自ら率いて、先頭に立っていました。
8月8日、秋田藩十二所舘の守将茂木筑後に対し書状を送ります。
書状には「貴藩が同盟を離脱したことの罪を問う為来たが、貴藩とは隣同士で良い関係を保ってきており、干戈を交えるのは本意ではない。願わくば真の勤王の為、今一度翻意されたい」との旨が書かれておりました。
書状にはさらに、「奥羽同盟の御趣意に立ち戻り、奸邪を除き、民の塗炭を御救い、天下の為真の勤王に御帰りならるべく」(太田俊穂著『最後の南部藩士』より抜粋)との文言もあり、同盟こそが正義、真の勤皇であるという、佐渡の強い信念思想が窺えます。
翌9日、確たる返事も無いとして、佐渡は全軍に進撃命令を出し、軍勢は国境を越えて攻め入ります。十二所舘の軍勢は手薄で、僅か3時間の戦闘で秋田勢は自ら火を放ち退却します。
十二所舘を前線基地とした南部勢はさらに進軍。8月22日には要衝大館城を落とし、南部勢は快進撃を続けます。佐渡の兵学者としての才能が大いに発揮された戦闘でした。
この時までは……。
ちなみに同22日には、会津攻撃のための新政府軍が猪苗代に進軍しており、同日には白虎隊の悲劇が起こっています。そして翌23日より、会津若松城においての攻防戦が始まることになります。
秋田の危機を知るや、新政府軍は続々と援軍を秋田に送ります。近代兵器を完全装備した軍勢を前に、南部勢は徐々に劣勢を強いられていきます。
8月26日をもって秋田勢は反撃に転じ、最新鋭のアームストロング砲による集中砲火を浴び、南部勢は撤退せざるを得ませんでした。近代兵器の前に、佐渡の軍学はまったくの無力でした。
8月から9月へとかけて、同盟諸藩の降伏、帰順が続々と行われていきます。抑々同盟に参加したすべての藩が戦いに積極的だったわけではなく、様子見に終始していた藩も多かった。それと各藩がバラバラに戦闘を行い、指揮系統の統一がまったくなされておらず、これではいくら数には勝る同盟軍と言っても、はじめから勝利はおぼつかなかったと言わざるを得ません。
そしてなにより、圧倒的な兵器の差というものが、勝敗を決定づけた、といえるでしょう。
8月29日には米沢藩が、9月15日は同盟の主力だった伊達藩が降伏します。
9月22日には、悲壮な戦いを続けていた会津若松城も遂に落城。会津藩の降伏によって、奥羽における戊辰戦争は実質終了したといえるでしょう。
しかし、盛岡藩はまだ戦っていました。結果的に南部盛岡藩は最後まで取り残されてしまったのです。
先立つこと9月7日、新政府軍の大軍勢は、十二所舘の南部陣地を攻撃、一大攻防戦の末、南部勢は後退を余儀なくされます。
佐渡は9月20日未明に最後の反撃を試みるも、多数の戦死者を出しただけで終わります。
もはやこれまでか!そこへ藩より、同盟諸藩悉く降伏した、我が藩も直ちに降伏すべし、との知らせが入ります。
佐渡は血涙を流しながらも、これ以上藩公に逆らうことは出来ない、我らの勤皇の志は、必ずや後世の人達に伝わるだろう、と諸将に胸の内を語り、諸将の号泣する声の響く中、停戦を決断します。
9月24日、南部盛岡藩は正式に降伏の手続きを行いました。
しかし、降伏を表明したにも関わらず、勝ちに乗じた「官軍」勢は9月28日、藩境の国見峠にあった南部陣屋に発砲をしかけてきました。南部勢は挑発にのらぬよう我慢していましたが、なおも攻撃を仕掛ける「官軍」に、やむを得ず反撃します。
この戦闘は後に、降伏の意志表明をしたにも関わらず戦闘を続けたとの理由から処罰の対象となってしまいます。
まさに「勝てば官軍」です。勝ちさえすれば、なにをしても許されるのでしょうか?畏れ多くも「天皇の軍隊」を自称する者達が、こんなことをして許されるとでも?
どこか他の国がやったのではありません。同じ日本人が日本人に対して、このようなことを行ったのです。
明治維新を綺麗ごとだけで終わらせようとする方々に、日本人「だけ」を過大評価したがる方々に、このような事実があったことを伝えておきます。
これもまた「日本人」が行ったことなのだと、伝えておきます。
忘れないでいただきたい。これが戦争です。
戦線より戻った佐渡は、そのまま禁錮を申し付けられ、佐渡の代わりに、謹慎中だった東次郎が新たな老中に任命され、終戦処理にあたることとなりました。
10月5日、総督府問罪使が盛岡入り、藩の武装解除を行い、10月9日には「官軍」勢が続々と盛岡入りし、翌10日に、盛岡城の正式な開城が行われます。
11月8日、監察使藤川能登が7百の軍勢を率いて盛岡に到着。藩主利剛と世子彦太郎(後の利恭)および楢山佐渡、佐々木直作、那珂五郎(通高)の三人が、「東京」に護送されることとなります。すべての沙汰は、東京にて行われるとのことでした。
この時、年号はすでに「明治」と改まり、江戸は「東京」となっておりました。
つづく、で、ありやす。
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