奥州藤原氏二代・藤原基衡については、その生没年がはっきりしないのですが、近年の研究では、大体康和5年(1103)頃だろうとされています。父・清衡が平泉建設に着手し始めた頃です。
奥州随一の都が出来て行く、その成長と発展をその目で見つめながら育ってきた。おそらくは父・清衡の薫陶を受け、自らもまた、平泉を此土浄土にすべく貢献することを心に誓ったことでしょう。
初代・清衡没後、その跡目を巡って、基衡とその異母兄・惟常との間に争いが生じます。結果基衡が勝利し、惟常は越後まで逃亡しますが基衡はこれを赦さず、軍勢を差し向けて惟常を誅しました。
こうした基衡の果断な行動に、奥州藤原氏はやはり武門の家柄であり、基衡は武門の棟梁であることを改めて感じさせます。
基衡は初代・清衡の意志を継いで、ひたすら平泉の町の整備に心血を注いだようです。なかでも毛越寺の建立はその白眉です。
古代の奥州街道(奥大道)を達谷窟から平泉中心部へ向かっていくと、突然目の前に豪壮な南大門が現れる。平泉の入り口に毛越寺の門を配置し、鄙びた田舎の風景から一転して絢爛たる仏国土が目の前に開ける。
この心憎い演出は、旅人の心理的効果を狙ったもので、これによって平泉=仏を中心とした都=平和な文化都市というイメージを植え付ける為だったと思われ、京に対するある種の挑戦であったのかも知れません。
京人が蔑む奥州に、こんな凄い文化都市があるぞと。
毛越寺建立時、基衡は京の仏師・雲慶に金堂の本尊の製作を依頼します。その代金として基衡が雲慶に送った品々がスゴイ!金百両、鷲の羽百羽分、アザラシの皮六十余枚、安達絹千疋、希婦細布二千反、糠部(ぬかのぶ)産の名馬五十頭、白布三千反、信夫毛地摺千反、その他山海の珍宝の数々。気が遠くなるほどの物量ですね。
三年後に本尊が完成。それはそれは見事な仏像で、出来栄えに満足した基衡は、ボーナスとして雲慶に生美絹(すずしのきぬ)を舟で三隻分送りました。
雲慶は大層喜び「これが練絹ならもっとよかった」と戯れを口にしたところ、後でこれを聞いた基衡は、これを真面目に受け取り、気配りが足りなかったと早速練絹を三隻分送ったとか。
正直どれほどの財力なのか見当もつきません。これだけの財力と権力を手に入れたなら、いかな人格者であろうとも、鼻高々となってしまうでしょう。基衡の代には、平泉の影響力は白河以北全体に広がっていったと思われ、知らず知らずの内に、基衡は天狗になっていました。
しかしその、天狗の鼻がへし折られるような事件が起こります。
京の都より、陸奥守として藤原師綱なる人物が奥州に下向してきます。
この師綱、さほど才覚のある人物ではなかったようですが、忠義一筋に白河院の側近く仕え、ついには陸奥守に任命された人物。非常に生真面目で融通の利かない人物だったようです。
着任早々、基衡なる蝦夷ずれが実質的権力を握っていることに憤りを感じ、朝廷の権威を示そうとします。朝廷より宣旨を賜るとまず信夫荘(福島市内)に入り、検知を断行しようとします。
信夫荘の管理者は、基衡の乳兄弟でもある佐藤季春。基衡は季春に、検知の拒否を命じ、季春はこれに従います。
朝廷の代理者たる陸奥守に従わず、基衡の命に従う。そこには中世武家社会の如き主従関係が、すでにして出来上がっていたのです。
鎌倉幕府は平泉の体制を手本にしている、とはよく言われることですが、すでに基衡の時代には確立されていたのですね。
師綱に派遣された検注使たちは、武力行使に及びますがあえなく敗北。これを知った師綱は激怒し、基衡に使者を送り、従わなければ合戦に及ぶと通告します。
これにはさすがの基衡も動揺します。いかに基衡が絶大な権力を持っているといっても、それは朝廷より与えられる官位官職があればこそ。陸奥守と合戦に及ぶということは、朝敵になるということ。朝敵になってしまっては元も子もない。
主人・基衡の窮状をみた季春は、すべての罪は自分にありとして、師綱の下に出頭します。基衡は季春の助命を嘆願し、師綱に砂金一万両をはじめ、多くの絹や名馬を献上しますが、堅物の師綱は頑として受け付けず、季春は首を討たれました。
主人のために自ら命を捨てる。まさに武士道です。この季春のまさに“命掛け”の行動に、師綱もこれ以上のごり押しは出来ないと判断したのでしょう。結局、検知は行われませんでした。季春はその命を持って、基衡を守ったのです。
乳兄弟にして友人、そして最高の家臣であった季春を、自らの慢心のために失ってしまった基衡の心中はいかばかりであったか。
仁平3年(1153)、京にあって「悪左府」の異名を持つ藤原頼長が、高鞍荘(岩手県一関市)をはじめとする五つの荘園の年貢増額を求めてきます。それは従来の税率を3倍から5倍に引き上げるという、かなり強引な要求でした。基衡はこれに毅然と対応し、要求された税率の半分以下の値で決着させます。
以前の基成なら、一切受け付けなかったかも知れません。しかしこの時の基衡は、相手の面目を保ちつつ、決して相手に呑まれることなく平泉の利益を守りました。晩年の基衡は単なる武辺者ではない、政治家としてのしたたかさを身に着けていました。
「悪左府」頼長はその三年後の保元元年(1156)、崇徳上皇を旗印として「保元の乱」を起こしますがあえなく敗北。戦場で受けた傷が元で死亡します。中央ではその後、平清盛が台頭し、時代は源平合戦の時代へ突入していきます。
「保元の乱」より1~2年後の頃、基衡はその生涯を閉じました。推定年齢54歳前後であったと言われています。
その全人生を、平泉の町の整備と発展に捧げた生涯でした。
次回以降、基衡の建立した毛越寺に迫ってみたいと思います。
【続く】
【参考資料】
『平泉 浄土をめざしたみちのくの都」
大矢邦宣 著
河出書房新社
『日高見の時代 古代東北のエミシたち』
野村哲郎 著
河北新報出版センター
『平泉と奥州藤原四代のひみつ』
歴史読本編集部編
新人物往来社
照明賞落書き、弟がマジックで、サングラスとひげ、帽子を描き。忘れていて、提出ご?
???面白い。ところで、これ誰ですか~。はい、ごめんなさいで御座います。
嘘よようなほんとの話です。おなわりさんに、おおきなものを感じました。です。
お疲れ様です。ありがとう御座います。m(__)m。無駄話ですみませんで御座います。m(__)m。お疲れ様です。ありがとう御座います。m(__)m。