宮城県の最北端に位置する栗原市。
2005年、旧栗原郡の全町村が合併し、市としては宮城県内最大の面積を誇るに至ります。
この栗原市内の、旧栗駒町櫻田の地に、山神社(さんじんじゃ)が鎮座されております。
その鎮座地にちなんで櫻田山神社と通称されるこちらの神社は、最近なにかとお騒がせの某お笑いタレントさんの実家として有名なようです。
が、そんなことはどうでもよろしいので、特にここでは触れません、あしからず。
話は古墳時代へ飛びます。
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6世紀初頭、第25代武烈天皇が崩御されました。天皇には皇子がおらず、応神天皇の5世孫であった人物を越前より後継者として迎え入れます。
第26代継体天皇であります。
このとき、武烈天皇の側近であった狩野掃部之佑と久我大連が、天皇に子がなかったことの責任をとらされ(?)、遠く東北の地へと流されました。
当時はまだ陸奥国は制定されておらず、東北は大和政権の勢力下に完全には組み入れられていない、いわば「化外の地」でありました。
この両名、流され落ち着いた土地に、武烈天皇を祀る祠を建てたようなのです。
その祠はとある山中に鎮座されていたようですが、後世、栗原郡櫻田の地に遷座された。
土地の人々は、山からきた神様だということで、ご祭神は武烈天皇のままであるに関わらず、安産、子宝の神という、山の神の性格そのままに信仰しました。
武烈天皇はそのまま、山の神として祀られることになったのです。
面白いですねえ。
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旧栗原郡には、霊峰栗駒山が聳え立ちます。
ですから栗原郡の山神社といえば、ほぼ間違いなく栗駒山の神を祀ったものであったとみて良いのではないでしょうか。
栗駒山は修験者たちの修行場でしたから、このご遷座には、あるいは山伏が関わっていた可能性があったようにも思われます。どのような意図があったのかは、分かりませんが。
武烈天皇といえば、大変粗暴なふるまいが目立ち、随分恐れられた天皇として、歴代のなかでも評判は悪い。
しかしこの件については、継体天皇による皇位継承を正当化するために創作された話ではないか、とする説もあるようです。実際にはそんな暴虐な天皇ではなかったのかも知れない。
本当のところは私には分かりません。ただ少なくとも、この流された二名にとっては、祀るだけの徳のある方であった、ということでしょう。
武烈天皇を祀った神社など、全国的にも珍しいでしょう。ひょっとしたらこちらの神社だけかもしれない。
天皇でありながら、隅に追いやられた感のある方を祀ったのが、他ならぬ東北の地であったことに、なにやら因縁めいたものを感じます。
当地に流され、武烈天皇を祀った二名の人物に、かつてやはり東北に流されたであろう、ナガスネヒコの残党を重ねて見てしまうのは、
私だけでしょうか……。
もうちょいつづく、かもしれない、で、
ありやす(^Θ^)
本筋とは外れますが、
特に最近地名がどんどん変わっていくことが残念でなりません。
地名、家の名(姓・屋号)が歴史を表していることが多いのに、
刷新・改革の名のもとに先人の財産を捨て去ってしまっているように感じています。
せめて神社や祠はそのいわれと共に大切に残してゆきたい、そう願います。
薫風亭さん、立派なご近所の物知り爺さんになって無形文化を伝えていってね!
武烈天皇の悪いエピソードは、全然検証してませんが、日本書紀の書き方の問題もあるのでは?と疑っています。
日本書紀は、「こんな感じ」を表現する為に、中国の書物から引用しているんですよね。なので、引用文に書かれているエピソードがその方にあった訳ではない、という事があるんですよね。
これは調べないと(笑)。
順徳天皇も「徳」の字は怨霊封じと言われているように、不憫な亡くなり方をしたと人々に思われた天皇でしたね。
天皇お一方が御祭神の神社は少ないのですよね。ありがとうございます。
わからないけど、でもなんか、面白いです。