風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

映画 『宮本武蔵 二刀流開眼』 昭和38年(1963)

2017-07-17 10:27:57 | 時代劇









内田吐夢監督、中村錦之助主演によるシリーズ第三弾。五部作の真ん中ということで、正直「繋ぎ」的な印象が強い作品です。高倉健演じる佐々木小次郎が初登場した以外には、特に観るべきシーンがあるわけでもない、ともいえる作品ではありますね。


物語は、柳生の庄の隠棲している伝説の兵法家・柳生石舟斎(薄田健二)を武蔵が訪ねますが、石舟斎は武者修行者に会おうとせず、武蔵はなんとか会おうとして策を弄しますが、石舟斎の直弟子、いわゆる柳生四高弟に行く手を阻まれてしまう。

その時武蔵は咄嗟に日本の刀を同時に抜いて構えます。二刀流「開眼」というわけです。


山中に逃げ込み、翌朝、石舟斎の隠棲する庵を訪ねようとしますが、門前に掲げられている歌に、俗世を離れて自然のなかに静かに生きようとする心情を読み取り、このような心境の人のところへ乗り込んで騒がせるのはいけないと、武蔵は石舟斎に会うことなく去るんです。


武蔵という人はただ単に「強い」わけではない。こうした人の心を思いやる繊細さを持ち合わせているわけです。こういうところがただ単に「強い」だけの兵法家とは違うところなのですね。



武蔵は剣を通して人としての道を極めようとしている。一方、京都の名門吉岡道場の二代目当主、吉岡清十郎(江原真二郎)は、剣の腕はそれなりにあるけれども、自分には「何か」が足りないと感じている。武蔵の存在がそれを常に意識させ、清十郎はいいしれぬ不安感を感じています。

その武蔵と果し合いをする清十郎、武蔵に「真剣か木刀か?」と問われ、思わず「木刀」と答える弱気を見せてしまう清十郎。

「そうであろう」と、武蔵はすでに清十郎を「見切って」います。踏み込んでくる清十郎を苦も無く一撃で倒し、素早くその場を去る武蔵。

「名門の子、やる相手ではなかった。しかし俺は勝った!」と無理矢理己を納得させるようにして去っていく武蔵。一方清十郎は武蔵に左腕の骨を砕かれ、痛みの余りに歩けない状態でした。駆け付けた門弟たちが戸板に乗せて運ぼうとしますが、道場の食客となっていた佐々木小次郎(高倉健)に一喝されます。

「道場主を戸板に乗せて京の町中を運んだのでは、道場の看板に泥を塗ることになろう」言われた清十郎は自分の腕を斬ってくれるよう小次郎に頼み込みます。これを受け入れ清十郎の左腕を斬り落とす小次郎。

すばやく止血すると、清十郎は無理矢理立ち上がり、歩いて帰ろうとします。名門の誇りだけが、清十郎の拠り所でした。


そこへ駆けつける青樹郎の弟、吉岡伝七郎(平幹二朗)。伝七郎は必ずや武蔵を倒し、この意趣を晴らし、吉岡道場の誇りを取り戻そうと心に誓うのです。


第四部、『一乗寺の決斗』へと続く。となるわけですが、


正直、全体的に間延びしたような印象のある映画で、べつに五部作にしなくても、三部作くらいでまとめた方がむしろスッキリしたんじゃなかろうか、と思わせる作品になっちゃってるところが、ちょっと残念な作品ではありますね。

ただ、佐々木小次郎初登場編ということでは意味があるし、演じる高倉健さんは、のちのある程度年齢が行かれてからの印象とは全然違っていて、かなり怖い印象が強い。目に込められた「修羅」の気が半端なく、この自信家の若き剣豪役に見事にハマっているんです。

晩年の健さんしか知らない人は、結構ビックリするんじゃないかな。この健さんは必見!


五部作の真ん中ということで、どうにもも中だるみ感が出てしまった作品ではありましたが、しかしこの作品あってこそ、次の『一乗寺の決斗』、吉岡道場の門弟70人VS武蔵一人という、このシリーズ最大のクライマックスを迎えるわけです。


そういう意味では、この作品もけっして無駄な作品ではありません。


というわけで、第四部、『一乗寺の決斗』へと続く。










『宮本武蔵 二刀流開眼』
制作 大川博
原作 吉川英治
脚本 鈴木尚之
   内田吐夢
音楽 小杉太一郎
監督 内田吐夢

出演

中村錦之助

入江若葉
丘さとみ

木村功

江原真二郎

浪花千栄子
阿部九州男

小暮美千代
南廣

薄田健二
河原崎長一郎

平幹二朗

神田隆
外山高士
谷啓


高倉健

昭和38年 東映映画