長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

細川藤孝 ~一子相伝の伝承者 戦国のケンシロウ~

2014年01月15日 | 戦国逸話
東京都知事選に元熊本県知事で首相経験者の細川護熙氏が立候補するそうですね。

別に今回のテーマはそれとは関係が無く、細川氏の遠い先祖がテーマです。

肥後細川氏の創始者ともいえる細川藤孝(幽斎)、その人です。

※出典:ウィキペディア

細川藤孝。
一体、どんな人だったのか。
人となりをイメージするエピソードとして、名将言行録はこんな話を残しています。

〇 勅命により田辺城を去る

 細川藤孝は大変和歌が得意で、和歌の奥義「古今伝授」という一子相伝の技を伝授されていました。
 関ヶ原の戦いの時には、藤孝は徳川家康に味方し田辺城に籠城しますが石田三成軍に攻められ、滅亡寸前まで追い込まれます。しかし、藤孝が死ぬと和歌の奥義を伝える人がいなくなってしまう事を憂いた時の天皇から、石田三成に対して藤孝を許すよう依頼があり、藤孝にも降伏するよう天皇が勧告した為、堂々と開城した。

と、のこと。

一子相伝の奥義を伝授された男、細川藤孝。
和歌の奥義と侮る勿れ。
なんと戦を停めて命を救ってしまったわけです。
芸は身をたすく、の諺を地で行く話です。

「古今伝授」がどれほどの威力があるのか。

この相承者に美濃郡上の篠脇城主東常縁(とうのつねより)と言う人がいます。藤孝よりずっと前の時代の人です。
この人は、本家筋の争いを止めに東国へ行っていたら、自分の城を美濃の斉藤妙椿(さいとうみょうちん)に奪われてしまいます。
帰る場所がなくなってしまった常縁は嘆き悲しみ歌に詠んだら妙椿が感動して城を返してくれた、という逸話もあります。

奪われた所領を取り戻し、面子を保って命を救う。
すごいぞ古今伝授。

ウィキペディアには
「古今和歌集は上流階級の教養である和歌の中心を成していたが、注釈無しでその内容を正確に理解することは困難であった。このため、古今集解釈の伝授を受けるということには大きな権威が伴った。」
との記載があり、大きな権威でもあったようです。

藤孝は和歌だけでなく、茶道、連歌、蹴鞠、囲碁、料理、猿楽など、とにかくありとあらゆる文化に通暁していたとされており、当代一流の文化人だったことには間違いないようです。

そして、この人は政治力にも優れ、14代足利将軍になり損ねた足利義昭を助けて奔走し、織田信長というスポンサーを見つけてきて義昭を15代将軍にすることに成功しています。しかし、義昭と信長が対立すると義昭に見切りをつけて信長に従属し、豊臣秀吉、徳川家康の時代も見事に乗り切って武将としても一流なところを証明しています。

私としては、なんとなく教養があって政治力が高いエピソードから、どちらかというと知将的なイメージが強く、戦場で荒れ狂うイメージはありませんでした。
上記の写真でもなんだか、なよっとした感じで座ってて、公家的な匂いすら漂わせています。

ところが、そんな私のイメージを一瞬で吹き飛ばすエピソードを言行録では載せていました。

〇 膂力あり

 藤孝は膂力(りょりょく。うらにわ注:ちから)がありました。
 牛車が暴走してきた時に、その牛の角を持って押し返したところ牛がずるずると後退しました。
 また、北畠信雄(信長の次男)の邸で能が開催された時、門番が通さず、竹杖を振り上げて来たので、杖と門番の手を強く握ったら門番の骨が砕けてしまい、湯治せざるを得なかった。
 細野入道伊三が藤孝邸にやってきて、話をしていたついでに力の話をしたら藤孝は、
 「それは若い頃の話です。今は何もかも力が落ちました。しかし、和歌だけは読む形式はともかく和歌の心はうまくなったと思います。」

と言ったとさ。

私のイメージは吹っ飛びました。
そして、別のイメージが。。。

突進した牛を停め、門番の骨をも砕く、一子相伝の奥義伝承者。

北斗の拳のケンシロウじゃん!

無慈悲にも竹杖をたたきつけようとする門番。
その門番の腕をむずと掴み秘孔を突く藤孝。
「五指烈弾!」
と、藤孝が言うや否や、
門番は、「はうわぁ!」と叫んで腕が吹っ飛ぶ。

名将言行禄は控えめに書いていますが、牛も「ひでぶ」と叫んでミンチになったと思います。

そう考えると、田辺城の籠城戦も天皇の停戦命令が無くても落城することは無かったと思います。
なにせ、藤孝独りいれば敵は木っ端微塵になるでしょうから。

服がびりびりに破れて上半身裸になったあと、
「あたたたたたたたたたたたたたぁ~!」
と叫んでパンチを繰り出し、

「古今百裂拳!」

と叫ぶ藤孝。

ちょっと見てみたい。