長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

年寄りの冷水 ~井伊谷三人衆の子孫~

2012年06月17日 | 奥三河
山家三方衆というのは、奥平、田峯菅沼、長篠菅沼、という奥三河の有力三家を総称した呼び名です。
対して、徳川家康の遠州侵攻時に大きな役割を果たした、鈴木、近藤、菅沼(長篠菅沼支流)の三家を井伊谷(いのや)三人衆と呼ぶ場合があります。
山家三方衆ほどの大きさではなく、また、ドラマがある訳ではありませんので地味な存在です。

そんな地味な三人衆近藤家の子孫が『甲子夜話』に逸話を残してくれていました。

○近藤石見守(甲子夜話1 巻二 42 39頁 平凡社)
 近藤石見守(遠州気賀領主。三千四百石程度で交代寄合)は、寛政年間中大番頭だった。この人、武術を嗜み大変に武張った男で、私(松浦静山)も知っている者だ。
 ・・・、常の楽しみは刀作りだが、結構折れ易いものだった。人々は「あいつの気象だから刀も剛に過ぎるんだろうよ。」と評していた。
 酔えばなんかあると「俺は部下を率いて気賀の関を守り、(攻めてくる)西国大名を一人も通すものか」と気勢をあげた。
 後に駿府城代に出世し、部下に武技を奨励した。矢の訓練の時には、高い木の枝に的を掛けたり、あるいは射る人を高いところに登らせて下の的を射させるなどした。そして、部下どもは水泳を鍛錬しておらん、と、城内の池を自ら泳いで若い人々を教えていたが、高齢だったので池の水が原因で病気になり、亡くなってしまった。

寛政年間中ですから『寛政の改革』で有名な松平定信の頃な訳です。そんな頃にやたらと武に拘った人が井伊谷三人衆の近藤家に現れたようです。自分で武器を作って、やたら実戦ぽい訓練をする。どうも、今なら結構な軍事マニア的要素を備えている感じです。世が世なら俺は頸取って出世した、くらいに思っていたことでしょう。
しかしながら、歳には勝てず、池の水にあたって病気になってしまったとか。そりゃあ、池の水だから澱んでいたことでしょう。そんな水の中に入れば、当然様々な病原菌がいるわけで、御高齢のために命取りになってしまった、という訳です。
まぁ、自分の生き様に殉じた、とも言えないことはない・・・。

こんな激しい人は一体誰なんだ、と、思って『長篠戦史 第三分冊 井伊谷三人衆』(発行 長篠城址保存館)で調べてみました。
寛政の頃の気賀近藤家当主は、7代目用和(もちかず)。
経歴を見ると大番頭かつ駿府城代になっている上に石見守の受領名を名乗っている。そして、寛政11年10月29日駿府城内で51歳で亡くなられています。
そしてこの用和の息子用恒(もちつね)の項を見てみると、29日に用和が病死して即日城内を引き払った、と、あります。
どうやら用和の病死は突然であり、死が穢れとされているので主君の城で死を迎えることが失礼なので即日引き払わざるをえなかった、と、思われます。

う~む。間違いなく、甲子夜話のいう近藤石見守は用和氏でしょう。

まあ、気が若いのはいいですが、自分の年齢と言うものは、そこそこ考えながら行動しないといけない、という教訓を残してくれているようです。

しかし、そんな池で泳がされた部下達。結構体調不良者が出たんだろうなぁ。
こんな上司は嫌だ。

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