私は、S19年生まれで終戦について記憶はないため父親との関連で戦争と我が家族のかかわりについて紹介します。
昨年8月にもブログで父のことを書きましたので一部ダブリます。
父は、自らの戦争体験などについて語ったことはありませんでした。私は退職後、父のアルバムや履歴書などから父や家族のことを調べました。
父は、昭和12年に千葉県松戸にあった陸軍工兵学校電気中隊を卒業後、中国大陸で昭和14年まで工兵として服務していました。
同14年退役後、呉海軍工廠電気部発電工場で勤務をはじめました。昭和15年に四日市海軍燃料廠電気工場へ転勤し、終戦まで勤務しました。この間、昭和17年に結婚、同年に長女が生まれ、19年に私が誕生しました。
四日市燃料廠は、当然軍部の燃料拠点であるため工場の写真などはアルバムには残っていませんが、電気工場の人たちが懇親会の時、四日市諏訪神社で撮影した集合写真が残っていました。マル印が父と思われます。
今回ネットで調査した結果、塩浜地区にあった四日市燃料廠の工場配置図がアップされていました。
また他のブログで、この工場は、当時軍が秋水というロケット戦闘機を開発しており秋水の燃料製造と貯蓄を受け持っていたことが分かりました。
戦闘機は時速850kmを超えるスピードで、燃料は過酸化水素、メタノール、水化ヒドラジンの混合液で、これをロケットエンジンで化学反応させて高速用エネルギーを生んだとのことです。秋水は三号機の試作で終戦になったそうです。
こんな拠点軍需工場ですから当然空襲が始まり昭和20年には、母は姉の手を引き私を背負い現在の下呂市へ帰りました。
母が良く話しますが、途中名古屋駅では空襲があり防空壕へ避難し、鵜沼の乗り換えでは米軍機の機銃で狙われて畑へ逃げたといっています。
終戦になり父親は無事帰りましたが、たまたま工場勤務のおかげで戦死しなかったわけですし、母と姉と私も運よく助かったものです。
姉は、せっかく戦火を逃れたのですが20年10月赤痢が流行り亡くなってしまいました。
父は戦後電気関係の経験者として日本発送電㈱で働きはじめました。まもなく盲腸で国立下呂病院へ入院したとき結核に感染してしまいましたが、当時病院へ行くと沢山の傷痍軍人の方が入院しておられました。
何としても、戦争放棄の憲法を持った国ですから文言どおりに国政が進められるよう「集団的自衛権」の閣議決定や「秘密保護法」を無くし、武器輸出三原則もきちんと守り、日本の武器や技術で亡くなる人がないよう願います。
8月18日追記
今回、父の工兵学校のアルバムを詳細に調べていたら、電気自動車(乗用車風)の前で撮った写真がありました。(眼鏡の人物が父)
戦前に電池自動車が普及していたのですね。?