惟光は夕顔の遺骸を東山の知りあいの寺に預け、翌日には葬儀をする手配を済ませたこと、右近は絶え入るばかりに嘆き悲しんでいることなどを伝えます。源氏はもうひと目だけ夕顔の遺骸に対面したいと願い、惟光は困ったことだとは思いながら仕方なく、急いでお出かけになって夜更け前にお帰りください、と言ってお供をするのでした。
東山の寺に着くと源氏は夕顔の遺骸の手を取って「我に今一度、 声をだに聞かせたまへ」と嘆き悲しみ、同じく悲嘆に暮れる右近には二条邸に身を寄せるよう言うと、惟光にせき立てられて二条邸に戻ります。途中、悲しみのあまりに馬から落ちるほどだった源氏は惟光に助けられながらようやく二条邸に戻ると、そのまま床についてしまいました。
源氏重病の知らせは内裏はおろか天下の人の大騒ぎとなり、帝はじめ左大臣家などでもお祓いや祈祷が行われ、これを聞いた源氏は強いて気を強く持ち、これが功を奏したのか次第に回復してゆきます。ようやく源氏が床を離れたのは、ちょうど夕顔の三十日間の忌が明ける日でした。源氏は宮中の宿直所まで出かけますが、このときも左大臣は源氏の参内のためにわざわざご自分の車を用意したのでした。
さてすっかり回復された九月二十日頃、気分ものどかな夕暮れに、源氏は二条邸に留まっている右近を側近く召して、夕顔について語り合います。
夕顔が名乗らなかったことについて、夕顔はふとした機縁で結ばれた源氏との仲を夢のように思い、また源氏が名乗らなかったので、戯れ事にしか過ぎないのかもしれない、とお悩みの様子でした、と右近は話します。源氏は自分も名を隠すつおりはなかったのに、つまらない意地の張り合いだったと後悔し、改めて夕顔の本名を右近に問います。
しかし右近は、隠すつもりはありませんが、あの方ご自身が包み隠されたことを、その亡き後に軽々しく申し上げるのが憚られまして。。と言葉を濁して、その代わりに夕顔の、前述したような生い立ち。。三位中将の娘で、両親には早くに死別し、ふとした事から三年ほど頭中将と契ったが、右大臣家から厳しい言葉がかけられたため、夕顔は恐ろしさに姿をくらましてしまった。遺された子は西の京の夕顔の乳母に預けてある。。が語られ、源氏は薄々は感じていながらも、ここでついに頭中将が言った「常夏の女」こそ夕顔であったことを確信するのでした。
空が曇って冷たい風が吹くのを寂しそうに眺めていた源氏は
見し人の煙を雲と眺むれば 夕べの空もむつましきかな
と詠みますが右近は返歌も差し上げられません。あの五条の夕顔邸で朝に聞いた庶民の喧噪もいまは懐かしく思い出されて源氏は伏せってしまいました。。
。。
久し振りに『源氏物語』をじっくり読んでみましたが、いやはや読みにくい。。
謡曲を読める人なら鎌倉時代以降の文章はまずほとんど問題なく読めると思いますが、中古国文学は読解からして難しいですね。
さて長々と『源氏物語』「夕顔」巻を紹介したのは、能『夕顔』の多くの部分。。とりわけクセの文章が、この「夕顔」巻の描写を多く取り入れている。。というよりは、「夕顔」巻をすでに読んでいることが前提になって書かれているからです。
あらためて能『夕顔』のクセの詞章と現代語訳をご紹介しますが、「夕顔」巻を知らないと、到底理解できる文章ではありません。
地謡「物の文目も見ぬあたりの。小家がちなる軒の端に。咲きかゝりたる花の名も。えならず見えし夕顔の。折すごさじと徒人の。心の色は白露の。情置きける言の葉の。末をあはれと尋ね見し。閨の扇の色異に互ひに秋の契りとは。なさゞりし東雲の。道の迷ひの言の葉も。この世はかくばかり。儚かりける蜉蝣の。命懸けたる程もなく。秋の日やすく暮れ果てゝ。宵の間過ぐる故郷の松の響きも恐ろしく。
シテ「風にまたゝく灯の。
地謡「消ゆると思ふ心地して。あたりを見れば烏羽玉の。闇の現の人もなく如何にせんとか思ひ川。うたかた人は息消えて。帰らぬ水の泡とのみ。散り果てし夕顔の。花は再び咲かめやと。夢に来りて申すとて。ありつる女もかき消すやうに。失せにけり かき消すやうに失せにけり。
【現代語訳】
地謡「分別もない卑しい者たちの小さな家が並ぶその軒に咲く花の名もこの上なく見えたその夕顔を手折らせると、その折を逃さずに浮気性な女が心ざしは浅いが情けのこもった歌を詠みかけたのを面白いと思い、通うようになったが、班女の閨の扇とは違って深い契りを誓って東雲の道の歌を詠み交わしたところ、この世はこのように蜉蝣のように儚いもので命をかけて契った甲斐もなく秋の陽は早く暮れ、宵を過ぎる故郷の松が恐ろしい音を立てて
シテ「灯が風にまたたいて
地謡「消えたかと思うとあたりは闇となり、今まで生きていた人もはかなくなり、どうしようかと思い惑っているうちに川面の泡のように息を引き取った。その水の泡と消えた夕顔の花は二度と咲くことはないのだ、と夢の中に参って申しますと言うと女はかき消すように姿を消した。
夕顔上が「浮気性」とは、ちょっとイメージと違うかもしれませんが、「折すごさじと徒人の」の主語は源氏ではないですね。そもそも源氏と夕顔のなれそめというのが、夕顔から源氏に「心あてにそれかとぞ見る白露の 光添へたる夕顔の花」と歌を詠みかけたのが最初で、能『夕顔』の表現も この積極的な夕顔の行動を念頭に置いているのでしょう。
ところで内気でナイーブな夕顔が本当に自分から源氏を誘ったのか? については古くから論じられてきたところで、たとえばこの歌は頭中将の来訪と誤解して詠まれたものだ、とか(この説はこのあとの「夕顔」巻の展開から考えて不自然ではありますが)、この歌は夕顔自身ではなく、彼女を取り巻く女房たちが、頭中将の代わりに自分たちの女主人が頼りにすべき男と見定めて、その仲立ちのために贈ったのだ、とか。。
ともあれ、能『夕顔』。。の全般的に言えることではありますが、特にこのクセは「夕顔」巻の言葉を散りばめて王朝文学のニュアンスを醸しだすように工夫して作られているように思います。そしてシテはクセの前半は着座したままの所謂「居グセ」で、まさに『源氏』を物語る。。考えようによれば『源氏』の舞台化を意図して作られているのではないかとも思えるのです。
とは言いながら、この能は本三番目としては略式に作られていて、クセの後半ではシテは立ち上がり、ワキに向かって「夕顔の花はもう咲かない」と悲劇的な彼女の結末を、僧の夢の中に現れて申したのだ、と言うと姿を消します。
このあたり、ちょっと他の能とは違う行き方で、シテはワキに弔いを頼みませんね。執心を残しているという感じもなく、断定的に「(死んでしまった)夕顔はもう戻らない」と、いわば吐き捨てるかのように言って消えてしまう。。お客さまには、クセで語られた詳細な夕顔の物語が、激しい言葉で突然打ち切られたかのような印象を与えるのではないかと思います。
本三番目能の定式では、クセで語られた物語のあとにロンギが置かれ、シテはじつは私こそ この物語の本人なのだ、と明かすと、弔いを願って姿を消す、という段取りを踏むのですが、『夕顔』では主人公は変死したのであり、いわば源氏との愛の絶頂の瞬間に彼との愛も、自分そのものの命も、突然失うという急転直下の不幸に突き落とされました。
この曲にロンギがなくクセで中入になるのも、ひとつには重厚なこの能が無駄に長大になるのを避ける目的が作者にあったのかもしれませんが、もうひとつ考えられるのは、このように突然に幸せを断ち切られた夕顔の数奇な最期とその悲しみを表現するために、シテとワキが言葉を交わす落ちついたロンギを避けて、夕顔の恋から死へ至る物語をあえて急停止させるように仕組まれているのかもしれません。
東山の寺に着くと源氏は夕顔の遺骸の手を取って「我に今一度、 声をだに聞かせたまへ」と嘆き悲しみ、同じく悲嘆に暮れる右近には二条邸に身を寄せるよう言うと、惟光にせき立てられて二条邸に戻ります。途中、悲しみのあまりに馬から落ちるほどだった源氏は惟光に助けられながらようやく二条邸に戻ると、そのまま床についてしまいました。
源氏重病の知らせは内裏はおろか天下の人の大騒ぎとなり、帝はじめ左大臣家などでもお祓いや祈祷が行われ、これを聞いた源氏は強いて気を強く持ち、これが功を奏したのか次第に回復してゆきます。ようやく源氏が床を離れたのは、ちょうど夕顔の三十日間の忌が明ける日でした。源氏は宮中の宿直所まで出かけますが、このときも左大臣は源氏の参内のためにわざわざご自分の車を用意したのでした。
さてすっかり回復された九月二十日頃、気分ものどかな夕暮れに、源氏は二条邸に留まっている右近を側近く召して、夕顔について語り合います。
夕顔が名乗らなかったことについて、夕顔はふとした機縁で結ばれた源氏との仲を夢のように思い、また源氏が名乗らなかったので、戯れ事にしか過ぎないのかもしれない、とお悩みの様子でした、と右近は話します。源氏は自分も名を隠すつおりはなかったのに、つまらない意地の張り合いだったと後悔し、改めて夕顔の本名を右近に問います。
しかし右近は、隠すつもりはありませんが、あの方ご自身が包み隠されたことを、その亡き後に軽々しく申し上げるのが憚られまして。。と言葉を濁して、その代わりに夕顔の、前述したような生い立ち。。三位中将の娘で、両親には早くに死別し、ふとした事から三年ほど頭中将と契ったが、右大臣家から厳しい言葉がかけられたため、夕顔は恐ろしさに姿をくらましてしまった。遺された子は西の京の夕顔の乳母に預けてある。。が語られ、源氏は薄々は感じていながらも、ここでついに頭中将が言った「常夏の女」こそ夕顔であったことを確信するのでした。
空が曇って冷たい風が吹くのを寂しそうに眺めていた源氏は
見し人の煙を雲と眺むれば 夕べの空もむつましきかな
と詠みますが右近は返歌も差し上げられません。あの五条の夕顔邸で朝に聞いた庶民の喧噪もいまは懐かしく思い出されて源氏は伏せってしまいました。。
。。
久し振りに『源氏物語』をじっくり読んでみましたが、いやはや読みにくい。。
謡曲を読める人なら鎌倉時代以降の文章はまずほとんど問題なく読めると思いますが、中古国文学は読解からして難しいですね。
さて長々と『源氏物語』「夕顔」巻を紹介したのは、能『夕顔』の多くの部分。。とりわけクセの文章が、この「夕顔」巻の描写を多く取り入れている。。というよりは、「夕顔」巻をすでに読んでいることが前提になって書かれているからです。
あらためて能『夕顔』のクセの詞章と現代語訳をご紹介しますが、「夕顔」巻を知らないと、到底理解できる文章ではありません。
地謡「物の文目も見ぬあたりの。小家がちなる軒の端に。咲きかゝりたる花の名も。えならず見えし夕顔の。折すごさじと徒人の。心の色は白露の。情置きける言の葉の。末をあはれと尋ね見し。閨の扇の色異に互ひに秋の契りとは。なさゞりし東雲の。道の迷ひの言の葉も。この世はかくばかり。儚かりける蜉蝣の。命懸けたる程もなく。秋の日やすく暮れ果てゝ。宵の間過ぐる故郷の松の響きも恐ろしく。
シテ「風にまたゝく灯の。
地謡「消ゆると思ふ心地して。あたりを見れば烏羽玉の。闇の現の人もなく如何にせんとか思ひ川。うたかた人は息消えて。帰らぬ水の泡とのみ。散り果てし夕顔の。花は再び咲かめやと。夢に来りて申すとて。ありつる女もかき消すやうに。失せにけり かき消すやうに失せにけり。
【現代語訳】
地謡「分別もない卑しい者たちの小さな家が並ぶその軒に咲く花の名もこの上なく見えたその夕顔を手折らせると、その折を逃さずに浮気性な女が心ざしは浅いが情けのこもった歌を詠みかけたのを面白いと思い、通うようになったが、班女の閨の扇とは違って深い契りを誓って東雲の道の歌を詠み交わしたところ、この世はこのように蜉蝣のように儚いもので命をかけて契った甲斐もなく秋の陽は早く暮れ、宵を過ぎる故郷の松が恐ろしい音を立てて
シテ「灯が風にまたたいて
地謡「消えたかと思うとあたりは闇となり、今まで生きていた人もはかなくなり、どうしようかと思い惑っているうちに川面の泡のように息を引き取った。その水の泡と消えた夕顔の花は二度と咲くことはないのだ、と夢の中に参って申しますと言うと女はかき消すように姿を消した。
夕顔上が「浮気性」とは、ちょっとイメージと違うかもしれませんが、「折すごさじと徒人の」の主語は源氏ではないですね。そもそも源氏と夕顔のなれそめというのが、夕顔から源氏に「心あてにそれかとぞ見る白露の 光添へたる夕顔の花」と歌を詠みかけたのが最初で、能『夕顔』の表現も この積極的な夕顔の行動を念頭に置いているのでしょう。
ところで内気でナイーブな夕顔が本当に自分から源氏を誘ったのか? については古くから論じられてきたところで、たとえばこの歌は頭中将の来訪と誤解して詠まれたものだ、とか(この説はこのあとの「夕顔」巻の展開から考えて不自然ではありますが)、この歌は夕顔自身ではなく、彼女を取り巻く女房たちが、頭中将の代わりに自分たちの女主人が頼りにすべき男と見定めて、その仲立ちのために贈ったのだ、とか。。
ともあれ、能『夕顔』。。の全般的に言えることではありますが、特にこのクセは「夕顔」巻の言葉を散りばめて王朝文学のニュアンスを醸しだすように工夫して作られているように思います。そしてシテはクセの前半は着座したままの所謂「居グセ」で、まさに『源氏』を物語る。。考えようによれば『源氏』の舞台化を意図して作られているのではないかとも思えるのです。
とは言いながら、この能は本三番目としては略式に作られていて、クセの後半ではシテは立ち上がり、ワキに向かって「夕顔の花はもう咲かない」と悲劇的な彼女の結末を、僧の夢の中に現れて申したのだ、と言うと姿を消します。
このあたり、ちょっと他の能とは違う行き方で、シテはワキに弔いを頼みませんね。執心を残しているという感じもなく、断定的に「(死んでしまった)夕顔はもう戻らない」と、いわば吐き捨てるかのように言って消えてしまう。。お客さまには、クセで語られた詳細な夕顔の物語が、激しい言葉で突然打ち切られたかのような印象を与えるのではないかと思います。
本三番目能の定式では、クセで語られた物語のあとにロンギが置かれ、シテはじつは私こそ この物語の本人なのだ、と明かすと、弔いを願って姿を消す、という段取りを踏むのですが、『夕顔』では主人公は変死したのであり、いわば源氏との愛の絶頂の瞬間に彼との愛も、自分そのものの命も、突然失うという急転直下の不幸に突き落とされました。
この曲にロンギがなくクセで中入になるのも、ひとつには重厚なこの能が無駄に長大になるのを避ける目的が作者にあったのかもしれませんが、もうひとつ考えられるのは、このように突然に幸せを断ち切られた夕顔の数奇な最期とその悲しみを表現するために、シテとワキが言葉を交わす落ちついたロンギを避けて、夕顔の恋から死へ至る物語をあえて急停止させるように仕組まれているのかもしれません。
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