ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

三位一体の舞…『杜若』(その4)

2024-05-18 03:20:42 | 能楽
シテ「また業平は極楽の。歌舞の菩薩の化現なれば。詠みおく和歌の言の葉までも。皆法身説法の妙文なれば。草木までも露の恵みの。仏果の縁を弔ふなり。

まさに現代人から見れば荒唐無稽な文言なわけですが、これはじつは「伊勢物語」そのものではなく、その”注釈書”の中に現れる説なのです。こういった注釈書の説が当時どこまで人々に浸透していたかはわかりませんが、能「杜若」はこの注釈書を下敷きに書かれた作品であり、それは一定数の観客に受け入れられることが前提で書かれたものでしょう。能「杜若」がどういった観客層を想定して書かれたのはまた議論されるべきだとは思いますが、作者の目標となった観客には理解されるという自信が作者の中にあったのは間違いないところだと思います。

「歌舞の菩薩」とは「極楽浄土で天楽を奏し、歌舞して、如来および往生をとげた人々を讃嘆するといわれる菩薩」というもので、能には使用例が多く、シテに直接かかわるものとしてもこの「杜若」のほか「胡蝶」「誓願寺」「当麻」「東北」「遊行柳」などに現れ、直接シテのキャラクターには無関係なものの言及された例として「土車」「東岸居士」が挙げられます。ところがこの言葉は仏典には現れない用語で、むしろ日本で独自に発明されたようです。

しかも能以前の古典文学にも用例がなく、一方「伊勢物語」の古い注釈書には業平のことを「この人は極楽世界の歌舞の菩薩、馬頭観音なり」などという例があります。注釈書が「歌舞の菩薩」の初出なのかは調べられませんでしたが、少なくとも文学としての作品にこの語を導入したのは謡曲が最初であるようです。

さてその業平=歌舞の菩薩という理解のもとに能「杜若」は作られているのですが、前掲の文の直前のシテの言葉も難解ですね。

シテ「植ゑおきし昔の宿の杜若と。詠みしも女の杜若になりし謂れの言葉なり。

「女の杜若」? メス。。? あ、植物だからメシベ? それに誰が女の杜若に変身したの? とかいろいろ思っちゃいそうですが、現代語に訳すれば「女【が】杜若になったというのは(奇跡だと驚かれると思いますが)、この歌にもちゃんとその謂れが語られているんですよ」という感じか。

この「植ゑおきし昔の宿の杜若 色ばかりこそ昔なりけれ」の歌は能「杜若」では序之舞のあとに全文があらわれます。ということはこれも「伊勢物語」所収の業平の歌か? と早合点しそうですが、じつはこれはまったく別人の歌で、「後撰集」に採られた良岑義方の歌「いひそめし昔の宿の杜若 色ばかりこそ形見なりかれ」を改変した歌です(改変の理由はナゾ)。歌意は「あなたと初めて契った家も、いまはあなたはいない。咲く杜若の色だけがあなたの形見と思われる」ということで、他の男のものとなったかつての恋人に杜若の花を添えて贈った歌です。

これだけなら男女の仲を取り持つ装置として杜若が機能した、というだけで「女【が】杜若になりし謂れの言葉」の証拠にはなり得ないように思いますが、じつはこれは後日談がありまして。

かつての恋人にこの歌を遣わしたあと、この男の夢に女が現れて返歌をしました。「この杜若の色を見なければ、遠い昔のあの昔を思い出さなかったものを。。」(大意)そしてそのあとに「これは杜若の精の歌だ」と(編者によって)解説が添えられているのです。さらには「これより以後、女を杜若と言うようになった」とまで記されています。

正確にはこれは後日談ではなくて、「後撰集」の同じ歌が採られた別の本、「玉雲集」に描かれたお話なのです。なんとなく納得できそうな説ですが、そうではない。この歌が人間が杜若に変化する証拠にはなりません。これについて江戸時代の謡曲の注釈書である「謡曲拾葉抄」には「これ(「玉雲集」)は夢の中で和歌に添えられた杜若の精が女の姿になって返歌をしたのであって、能では杜若の精が詠んだように書かれているのは誤り」(大意)と書かれていますが、ぬえには違和感があって、ぬえは「玉雲集」に近い立場です。もっとも「玉雲集」の成立が能「杜若」の上演初出記録よりも少しだけ遅れているので作者に影響関係があったかは微妙ですが。。

みんなが疑問を抱くこの歌ですが問題は多すぎる。そこで ぬえは思うのですが、要するに能「杜若」の作者が言いたいのは、「後撰集」の歌のような恋の心を詠んだ歌に仲介者として介在した草花も、その歌を贈り贈られた男女の仲立ちの存在となって同化していく、という程度の意味で良いのではないかと思います。。

「女【が】杜若になる」というのも、能「江口」などで「受け難き人身を受け」という文法から考えれば劣化した転生になってしまうのですが、そうではなくて美しい恋の心が昇華して、男女の仲立ちの存在となる、という程度の意味で良いのではないかと思います。

それは ぬえが思っているこのシテの正体。。本人がはっきりそう名乗っていても、じつはこのシテは杜若の精、というだけではなくそれ以上の存在だ、と ぬえは考えているのです。それはこのブログで追々表明させて頂くことと致します。
コメント
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