
8月現在の石巻。まずは名物になっていた「木の屋」さんの「鯨缶」跡地。水産加工工場の巨大タンクに製品の鯨肉缶詰の絵柄が描かれたもので、もとは水産加工会社のシンボルとして愛されていた このタンクが津波で流されて国道の中央分離帯に取り残されてしまったものです。以前の姿はこちら!

↑2011年7月

↑2012年1月

↑2012年6月
つい先日(6月30日)に ついに解体されてしまったのですが、震災以来1年3ヶ月に渡ってこの地にずっとありました。こういう被災した建造物を「震災モニュメント」として残そう、という動きは各地で巻き起こり、また一方住民から「震災の記憶を呼び起こすものは残して欲しくない」という意見も起こり、なかなか解決は難しい問題だと思います。ぬえはどちらかといえば住民さんの気持ちに近いものがあるのですが、この「鯨缶」だけは、まず人的被害がなかったし、なにより津波の凄まじい破壊力は伝えながら、見る者に悲愴感よりも、むしろユーモラスな感じを与えていたので、こいつは残しておいても良かったかな、と思います。
しかし「木の屋」さんの「今は保存にかける費用よりも工場の再建の方が急務」(大意)という判断で撤去が決まりました。なるほど、こういうものを公費で保存するなんて、まだまだ今の段階では無理だし、そんなことにお金を掛けるべきでもないでしょう。津波の被害の記憶をどう風化させずに後世に伝えるか。。このデジタル化社会の中で津波被害の映像などは鮮明に残るわけですが、やはり現地に来て肌で感じるものは残しておくべきだ、とも思います。それが更地に残された建物の残骸である必要があるのか、というと ぬえにはちょっと疑問なのですが、そうでなければ、明治の三陸津波の被害を伝える石碑と同じようなものになってしまう。現実に、今回の大震災の被害を伝える石碑はすでにいくつも建てられているのです。
こちらは岩手県釜石市の鵜住居地区に建てられた石碑(昨年末撮影)

こちらは宮城県気仙沼市の小泉地区に建てられた石碑(この8月に撮影)

過去、度重なる津波被害の度に建てられてきたこのような石碑。それでも今回も甚大な被害が同じ場所で起きました。。それでは一体何を残せば、それを見る人に次の災害に対する備えを怠らせない警鐘になるのか?? それが重大な人的被害を出した建物の残骸である必要はあるのか? それではあまりに当地の住民さんにとって重い負担になりはしないか? 。。ぬえには簡単に答えの出せない問題です。被災地の市民は誰も、自分たちの故郷をいつまでも「被災地」と呼ばれたくはないでしょう。ぬえたちプロジェクトも、現地での活動で住民さんと話すときは「被災地」という言葉は決して使わないです。
閑話休題。。石巻の現状に戻りまして。。
こちらは北上川の河口、日和大橋の下あたりの石巻港です。何度も何度も渡っている日和大橋ですが、はじめてその下側に入り込んでみました。これは灯台のようにサインを船舶に送るブイでしょうか。崩れかけたままの堤防に突き刺さったまま。。

こちらは石巻市内で最も大きな被害を出した区域である門脇・南浜。ほとんど更地になってしまいましたが、まだいくつかの建物が被害を受けた状態のまま残されています。


遠くに甚大な人的被害を出した門脇小学校が見えます。

先日聞いたところでは、この地域の再開発計画がまとまり、なんでも門脇小学校は取り壊しとなり、その校門の前の道を境に、そこより海に近い地域は建築禁止の区域となるのだそうです。日和山との境目の断崖からほんの数十メートルが住宅街、そこから海側1kmほど? は建築禁止ということは、巨大な公園。。震災のメモリアル公園のようなものになるのでしょうか。
変化はとめどもなく。石巻も進歩を続けていっているのでしょう。もちろんそうでなくてはなりませんですね。ぬえたちの活動が少しでも元気を与えられればよいのですけれども。。