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東京大空襲から福島原発へ(再録)

2015-03-10 09:02:36 | 日記
 70年前の今日3月10日、アメリカ軍による東京爆撃がありました。体験者の一人として今は亡き娘康花には逃避行の一部始終を話したのみならず、その後その足取りを実際に二人で辿っただけでなく、疎開先となった福島の山寺にも足を運びました。小生の後、語り継ぐべき彼女はそれも不可能になってしまいましたが、ただ彼女は、作品として習作ではありますが、20点近く描き残してくれました。それらの作品は、昨年夏、康花美術館の企画展でも展示紹介しました。今年も夏には引き続き展示する予定にしています。

 ところで明日3月11日は、東日本大震災と福島原発事故が起きてから4年目になります。以下は、日本有機農業研究会の機関紙『土と健康』2011年特集号に掲載された小生の一文です。語り部としての後継者に代わって、ここで再び取り上げご参考に供したいと思います。

 *「空襲だよ!」と言う母の声に飛び起きた僕は、日頃言い聞かされていたとおり、何のためらいもなく母に従って外に出た。夜空はそこかしこで燃え上がる真っ赤な焔に照らされ異様に明るかった。防火用水の水をかけた防空頭巾を頭に僕たちは火の手の及んでいない郊外に逃げて行った。道路沿い燃え上がる家々の火焔をくぐって大勢の人たちが同じ方向に向っていた。そのうち道は二つに分かれ、僕たちは真直ぐの道を選んだ。後で聞けば、左に行った人たちは爆撃でほとんどの人が亡くなったという。真直ぐの道を選んだ僕たちは、その先の森の中のあった寺の境内に避難した。寝床は銀杏の木の下だった。そこで二泊したように思う。
 明けてわが家に戻ると、辺りは焼け野原だったが、わが家だけがぽつんと残っていた。隣家の人だったのだろうか、真っ黒に焦げた死体が二つ転がっていた。1945年3月10日の東京大空襲の出来事である。その後僕たちは福島に疎開した。

 それから66年後の2011年3月11日、その福島で原発が爆発した。この間、1950年に朝鮮戦争、54年自衛隊発足、60年の安保闘争とベトナム戦争、そして日本初の原子力発電所の設置と水俣公害、70年の安保闘争、90年の湾岸戦争、07年防衛省発足、を僕たちは経験した。不戦を誓ったにも拘らず、朝鮮・ベトナム戦争で潤った日本はさらに湾岸戦争を支援、唯一の被爆国であるにも拘らず、日米安保の下核の傘のある日本、そして気がつけば大量の原発保有国に。すべては「貿易立国」「富国強兵」への回帰、福島原発はその結果だった。
 新興宗教「GNP教」を国民統合の絶対的な価値観とし、後はご都合主義のダブルスタンダードがそれを後押ししたのだ。ここに至っても「原発がなければ『豊か』な生活は維持できない」と言う脅し文句がまかり通っている。

 僕たちはまたまた来た道を繰り返すのか。問われているのは、実は「原発」ではなく僕たちの日常性、「豊かさとは何なのか」そのものではあるまいか。その一翼を担う有機農業が、これまで以上に垣根をこえた「連帯」と「提携」を必要としていることは確かだろう。

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