農文館2

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

「責任の歴史学」松村高夫論文を読んで(3)

2019-12-31 11:29:45 | 日記
3.アドルノの問いとドストエフスキー
  
 『西欧の没落』は近代ヨーロッパ文明の終焉を予告したドイツの哲学者シュペングラー(1880-1936年)の書として有名ですが、実はそれに遡る半世紀ほど前、ロシアの作家°ドストエフスキー(1821-1888年)が『カラマーゾフの兄弟』で暗示していたのです。ヘルマン・ヘッセは『カラマーゾフ兄弟、ヨーロッパの没落―ドストエフスキーを読んでの着想』(1919年)の冒頭で述べている「「カラマーゾフ」において、私には私が自分の用語で「ヨーロッパの没落」と呼んでいる事柄が、おどろくほどの明瞭さをもって、表現され予言されていると思われるのである。ヨーロッパの青年、とくにドイツの青年が、自分たちの偉大な作家と感じているものが、ゲーテでなくまたニーチェでもなく、実にドストエフスキーであるということは、私たちヨーロッパ人の運命にたいして決定的な意味をもつことであると思われるのである。」(手塚富雄訳)からも明らかです。そのドイツの青年たちの一人がこの作品の影響を受けて著したと思われる『ヨゼフとその兄弟』の作者トーマス・マン(1875-1955年)であり、筆者が取り上げているアドルノ(1903-1969年)は彼の友人でもありました。
 
 筆者は、理性による合理主義の近代社会に移行したにもかかわらず、「人類は何故に真に人間的な状態に達する代わりに、新しい種類の野蛮に陥って行くのか」というアドルノの問いを、「はじめに 核時代に対応する社会諸科学の不在」で取り上げていますが、私は正にドストエフスキーは、理性による合理主義の近代社会の危険性(ヒットラーが選挙で選ばれナチの台頭を許しアウシュビッツに繋がり、第二次大戦が勃発した)を予知していたがゆえに、二二が四を玉条とする理性の哲学に抗議する情念の哲学を対置し、サルトルの言葉を借りれば「表面的な事実の理性」よりも「人間の深い現実」捉え、「西欧の没落」が避けられないことを、予言したように思えるのです。
  『カラマーゾフの兄弟』の要で、主人公アリョーシャの師となるゾシマ長老は死別に際し、科学と自由について次のような言葉を残しています。「彼らには科学はあるが、科学の中にあるのは人間の五感に隷属するものだけなのだ。(略) 世界は自由を宣言し、最近は特にそれがいちじるしいが、彼らのその自由とやらの内にわれわれが見いだすものは何か。(略)彼らは自由を、欲求の増大や急速な充足と解することにより、自己の本姓をゆがめている。なぜなら、彼らは自己の内に、数多くの無意味で愚劣な欲望や習慣や、愚にもつかぬ思いつきを生み出しているからである。(略)だが、ほどなく、酒の代わりに血に酔いしれることだろう。彼らの導かれて行く先はそこなのだ。わたしはみなさんにうかがいたい――こんな人間が果たして自由なのだろうか?」(原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』新潮文庫版)。さらに自由の問題については、西欧の啓蒙思想の影響を受けながら苦悶するカラマーゾフ家の二男イワンを通じて「大審問官」のところで語らせているとおりです。




「責任の歴史学」松村高夫論文を読んで(2)

2019-12-30 09:27:00 | 日記
2.欲望原理に従属する経済学
  
筆者が指摘する「現代の経済理論が演繹的方法による限り、核兵器と原発の製造や輸出に反対する論理は出てこない」とする見解は正論です。厳密には市場原理下における不可避的な規模の経済を目的とする「資本の文明化作用」は、ありとあらゆる物を商品化せざるを得ないからです。端的には家事の商品化によって乳飲み子までもがマーケットに組み込まれていることに象徴されていますが、巨大資本を要する核兵器、原発おやです。正に資本の欲望に狭義の経済学は従属せざるを得ないのです。その典型がアイゼンハワー大統領退任時、良心の呵責から?警告したアメリカ経済の「産軍複合体性」ということです。
筆者はそこで「原発事故を経済理論の中に取り込み理論を展開する帰納的方法」の重要性を指摘します。原発事故に限らず、原発の劣化と廃棄物のコストを組み入れた場合、経済的にも不合理であることはすでに指摘されているところで、いわゆる社会的費用の増大、外部不経済の増大という視点から、原発のみならず、今日あらゆる分野において問われていることは、地球温暖化問題、環境問題に見られるとおりです。例えばこの分野の先駆的な研究とされる、宇沢弘文『自動車の社会的費用』(1970年)、都留重人『公害の政治経済学』(1971年)、K.E.ボールディング『経済学を超えて』(1970年)、I.イリーチ『脱病院化社会』(1978年)などは、筆者が取り上げた帰納的方法による広義の経済学と言われるものです。

しかし現実にはここにも立ちはだかるものがあります。Sustainable Development「持続可能な開発」という「成長神話」がいまだ息づいていることです。原発はその象徴的経済手段だと言えるでしょう。端的には「資本の文明化作用」、「規模の経済」を支えている、フロイトの言う人間の行動の端緒としての欲望、仏教でいうところの「五欲」、今日的には「規模の経済」を支える大衆の欲望原理ということができます。問題はこの欲望原理が、自由と民主主義の下、「消費者は王様」という標語に踊らされて歯止めのきかない王道を歩んでいるということです。








「責任の歴史学」松村高夫論文を読んで(1)

2019-12-29 10:57:50 | 日記
「責任の歴史学」-「米国の原爆投下の責任は問えるか」と「731・細菌部隊における研究と学位論文」松村高夫*を読んで
                                         2019年12月26日 須藤正親

 表題の二つのテーマは、日本が関わった戦争の歴史的な極めて重い既成事実としながらも、残念ながら私にはその内実について検証する力量のないことをまずお断りしなければなりません。その上で二つの論文を読み終えた後、最初に思い起こされたのは、60年代に論壇をにぎわせ、そして今日もなお根強く沈潜している林房雄の『大東亜戦争肯定論』でした。論文筆者(以下筆者)が論考で明らかにしているアメリカの隠蔽と欺瞞に満ちた原爆投下の事実をもし林が知っていたら、そして今日的には彼らにとってどう受け止められるのか、その一方で、731部隊については聞きたくない見たくない現実が実存しているということでした。そこに通底しているのは勝者敗者を問わず、クラウゼビッツ『戦争論』がいう「戦争は政治の延長である」という冷徹な政治学と、フロイトが洞察していた欲望原理に取りつかれた経済学が隠蔽しようのない愚かさと残虐性を持った人間の姿を浮かび上がらせているように見えたことです。以下この文脈に沿って思いつくままの感想、いや雑感を述べさせていただきます。

1.「戦争は政治の延長である」
  現代工業文明の負の側面を『モダン・タイムス』(1936年)の中で鋭く風刺したチャップリンは、その後『殺人狂時代』(1947年)の中で死刑にされる主人公に「人ひとり殺せば犯罪だが、百人殺せば英雄だ」と言わせて幕を閉じさせていますが、その背景にはアメリカでの制作作品であったとはいえ、戦時下ヒットラーを風刺した『独裁者』(1940年)を発表した彼のゆるぎない反骨魂からすれば、同国の日本への原爆投下を含みとしてのセリフであったような気がしなくもありません。筆者が、トルーマンがスターリンとのポツダム会談の期日を遅らせたのは、「原爆を完成させ日本に投下することによってソ連の参戦阻止」を目論んでいたという指摘から理解できるのは、勝者アメリカがアウシュビッツを断罪しながらも、政治学の上で勝者の大量殺人を正当化していたことを物語っています。事実、原爆投下以前に都市への無差別爆弾の投下は既にドイツや日本で実験済みであったし、それが王道となっていることを、チャップリンは犯罪者の口から言わせることによって、レトリックの妙を使いこなしたのです。チャップリンがその後アメリカから追放されたのは周知のとおりです。その意味で、核兵器の廃絶を訴えるオバマが広島訪問の際、謝罪の一言もなかったのは、「戦争は政治の延長である」という政治学が依然として存続していることを無言で示したに他なりません。

 (注)*慶応大学名誉教授











中曽根元総理はそんなに偉かったのか?

2019-12-04 11:03:34 | 日記
 101歳で亡くなられた中曽根元総理への賛辞が大本営のみならず民放などマスコミのいたるところで喧伝されています。60年近く前の日米安保騒動時、学生であった小生は学内の講堂で、当時自民党の青年将校と言われていた中曽根康弘と、社会党の成田知己それに評論家の羽仁五郎の3人の講演を聴いたことがありました。学生にとっては、必読書もどきとなっていた『都市の論理』の著者羽仁五郎が目玉で、小生もその一人であったような気がしますが、一番印象に残ったのは中曽根さんの話でした。端的には「短い人生の中で大事なことは人間関係である」、というもので、爾来人生訓の一つとして胸に刻み込まれることになりました。しかし今思えば若気の至り、どれほどに理解していたかは疑問です。齢40台、当時の中曽根さんと同じ年頃、小生は教壇に立つことになり、若い学生諸君を前にしてその意味合いの深さを再認識したのです。講義の冒頭、ガイダンスでは人間関係の大切さを必ず話すことにしてきました。その意味では、中曽根さんはわが人生にとって忘れえぬ人の一人でもあり、感謝の念を今もなお深く抱いています。

 少数派であった中曽根さんが首相に成りえたのは、正に人間関係、田中角栄さんの後押しがあったればこそ実現したわけですが、しかしそれとこれとは別、政策は全くいただけませんでした。ロン‣ヤスの謳い文句通り、小泉さんや誰かさんとそっくり、終始アメリカべったり、日米貿易摩擦下、アメリカからの日米構造協議交渉(貿易の枠を超えて日本経済の基本構造の改変をアメリカが迫った)を受け入れ、結果は国鉄の民営化をはじめとする、いわゆるサッチャー・レーガノミックスという新自由主経済路線=マネーゲームに日本が与する契機となったことを忘れてはなりません。そしてその後何が起こったのか。今日、世界中で起きている貧富格差の拡大と政治不安、とりわけ日本では東京一極集中と地方の過疎化(農林漁業の衰退)など周知のとおりです。特に札幌在任中、国鉄の民営化で火の粉をまともに受けた道民たちの悲劇を間近にしてきたことや、長年限界集落に身を置くものとしては、相も変らぬマスコミの能天気ぶりにいささか腹に据えかね一言口をはさまざるを得なくなった次第です。

 高々30年ほど前の事実すら検証できないこの国が、長い歴史のある日中や日韓関係を日めくりでしか理解しようとしないのも理の当然と納得しながらも、日本陶酔にひたる虚勢のあまりの軽さと幼さに最近では怖ささえ感じています。新自由主義が生み出したトランプ大統領以上に怖いのは自惚れ鏡を価値基準とする無知の蔓延です。中曽根元総理はそんなに偉かったのか? 政治家やマスコミに騙されないよう。 合掌