農文館2

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稲刈り終えて、AIを考える・下

2018-10-20 10:45:13 | 日記
 
 経済学や政治学が短期的な合理性を追求する利得の最大化を求める学問に堕している今日、それは同時に国民一般がそう望んでいるからという根拠に基づいたことなのですが(流行りの言葉で言えばポピュリズム)、科学技術という耳障りの良い言葉に載せられて、科学者が(実は技術者)が暴走するのを黙認する勇気だけは持ち合わせたくないものです。
 4世紀のローマ皇帝ユリアヌスは、およそ700年前の哲学者プラトンの思想を彼の生活信条として政治を行ったとされていますが、ヨーロッパには今なおこうした問いかけ(哲学)があることを私たちは知っておくことも肝要です。たまたま今朝FM放送で聴いていたイタリアの作曲家モンテベルディの歌劇『オルフェオ』は、2000年以上前のギリシャ神話を題材としたもので、恐らくヨーロッパのほとんどの人たちがその物語と宗教性を知っての上で400年余愛聴しているのでしょう。なぜならその宗教性はプラトンにも多大な影響を与えていたからです。もっともヨーロッパがプラトンばかりの影響下にあったと言うことではなく、むしろ同時代の現実主義者アリストテレス対する畏敬の念の方が優っていたことも付け加えておきます。ローマのバチカン宮殿の壁画、ラファエロの『アテネの学堂』にはプラトンとアリストテレスを中心に数多の哲学者や科学者たちが描かれていますが、ヨーロッパを知る上で象徴的な作品です。
 
 と言ってギリシャ・キリスト文明をもたない我等、せめて彼らが生み出した近代工業化社会を自ら問い直したフロイトやチャップリンらの問題提起を通じて、日本の近現代の転換点となった明治維新前の旧暦時代、それが無理なら高度経済成長以前の「素朴な」日本社会・「忍耐強く謙虚であった」常民の有様について、知的世界に足を突っ込んだ学徒もひとまずケインズやマルクスを離れて、日本の歴史再発見の旅に出ては如何かと、明治維新後150年、村上吉子の歌はそんなことを告げているような気がします。

 稲刈り、はざ掛けを終え、山から下りてきた神様は、田んぼの神様に仕事を預け、そして見届けて、又田んぼから山に帰って行きました、とさ。

  

稲刈りを終え、AIを考える・中

2018-10-19 13:09:06 | 日記
 でもどうなのでしょう。便利さの代償は単に人間が働き稼ぐ場を奪われるだけで済むものなのでしょうか? 哲学をする者の眼からみると、科学と言うより効率の向上ばかりに目を奪われた技術の進歩にこれ以上人間はついてゆけるものなのか、疑問は膨らみ、阿Qが再び右顧左眄、彷徨いだすのを懼れます。
 生老病死と言うまごう事なき理、原始より人間が逃れることの出来ない、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、そして本能としての色愛想行識、と言ったご先祖様から生き物として延々と受け継いてきた、理と普遍的な心の感情の有様はどのような影響変化を受けるのか、失っていくものは、強調肥大化されてくるものは何なのか。そして人間社会は? ロボットやAIとは全く無縁であった江戸期の水戸光圀の侍女村上吉子が、安藤為章の『年山紀聞』に寄せたというこんな辞世の歌にひどく胸を打たれるのはもはや「化石人間」だけの特権なのでしょうか。
 
 又も来ん人を導くえにしあらば八つの苦しみ絶え間無くとも
 
 20世紀最大の哲学者の一人、フロイトは近代から現代工業社会への転換点の中で、増え続ける神経症患者の病理を精神分析によって問い詰めましたが、その基本となるものは、この人間の心に負荷をかける外部要因としての環境の変化を解き明かしたことでした。その成果は今もなお心理学の領域で無限の貢献をしています。
 
 確かに負荷のかかるインコンビニエンス・不便より負荷のかからないコンビニエンス・便利に越したことはありませんが、でもその結果が必ずしもそうとばかり言えないことが、外部不経済、社会的費用として拡大してきていることを見逃すことはできません。地球の温暖化による異常気象は周知の事実として、例えば、医療技術の進歩による「医原病」の多発、過剰な清潔化・無菌化による免疫力の低下や二人に一人発症するとされるガン疾患など、身近な技術の進歩や生活の向上? 自体が一方で、人様に新たに過重な肉体的負荷をかけていることも明らかになってきています。とりわけ精神的負荷による罹患者の別なく浸透している全般的な〝人類の精神疾患”がこれ以上深更するのを恐れます。筆者はかねてからその現象を、人間の心、厳密には感情と知性を失った「ロボット化」と読んでいます。その「ロボット化」の先に何があるのか。
 1978年に公開されたF.シャフナー監督の『ブラジルから来た少年』は、ナチズムを信奉する科学者がクローン人間ヒットラー少年を大量生産する内容の映画で、極めて今日的にも思えます。ちなみにシャフナー監督はこれより10年前に人類の滅亡を描いた『猿の惑星』を制作しています。
 
 
 

  

稲刈りを終え、AIを考える・上

2018-10-13 11:41:56 | 日記
 稲刈りが9日火曜日、漸く終わりました。前半の手刈りと、後半の機械刈を含め、7日間かかりました。ほぼ要した日数は昨年と同じでした。違うのはこれまでもお話ししてきたように、雑草、稲もどき、ヒエを切除するのに、稲刈り前までにほぼ20日間労力を費やしたことです。幸い機械刈りも、昨年のように泥土に機械が沈没しなかったことで救われましたが、我ながらよく続いたと思います。9月26日の大学病院の所見によれば、6月から7月にかけて罹患していた不明の肺の病は、一応「肺炎」だったということで、(一応と言ったのは、医師が小生が肺炎の薬を飲んだものとして診察したのですが、小生は手元にあった風邪薬を飲んだほか、しかも具合がもっと悪くなったので止めにしてS病院にかかったわけで、肺炎の薬はおろか薬は一切飲んではいないのです。)いわば病み上がり? の労働だったということになります。きっと阿呆になった「阿Q]になり切っていたのかもしれません。
 
 話は少しそれますが、最近、物の売り買いで現金取引が減っているそうで、キャッシュレスにも拘わらず、現金に固執するような高齢者は「老害」だ、と言う声を耳にしました。スマホに象徴されるコンビニ社会に順応できない高齢者に対してかつて同じような話を聞いたことがありますが、現金については初めてでした。そう言えばスーパーでの代金支払いで一円玉を数えていることについて、後に並んでいる客には迷惑だ、と言われたことがあったのを思い出し、そこで遅まきながら気がつかされたのは、年寄りが20日間も費やす草取りは、はた目から見たら当てつけ、これ見よがし、迷惑至極、明らかに「老害」になるのだということでした。除草剤をあらかじめ散布しておけば、20日間の労働は全く不要、加えて農協のコンバインに任せれば、7日間の稲刈りも不要です、更に2週間のはざかけ、脱穀も不要となります。除草剤散布はずっと前から当然のこととして、我が田周辺ではコンバインを使う農家も大分増えてきています。

 これからは更に労働は、人間からロボットへ、いわゆるAI時代が一層進行してゆくとされています。米作りも全く人手なしで可能となるということなのかもしれません。機械化、ベルトコンベアー・システムが普及し始めた初期、82年前、人間と機械との関係を分かりやすく描いたのはチャップリンの『モダン・タイムス』でした。AIは『モダンタイ・タイムス』を超えて、主人公のチャップリンに代わってやってくれるということなのでしょう。

 

心優しく、安穏とさせる詩十篇届く

2018-10-04 11:08:32 | 日記
 長野県の歌人、待井貴子さんから珠玉の短歌10篇が久方ぶりに届きました。待井さんは先年、同年代であった康花の作品・絵や詩に共鳴したのをきっかけに美術館の方に度々来館されています。康花の作品に共鳴したのも、ひとつには彼女自身歌人であったことにもよりました。爾来、直接新作の作品をお持ちいただくか、あるいは郵送でお届けいただいておりました。これまで作品は、美術館のブログや休憩室のテーブルに置き紹介してきましたが、この度は農文館の読者の皆さんにも是非お読みいただきたく掲載することといたしました。

 *割り箸の 袋に一句 したためて 店主に渡す 奈良井のそば屋

 
 *川底に 影を落として 泳ぎゆく ニジマスの群れ さざ波に消ゆ

 
 *木陰にて 散歩の汗を 拭うとき 視界をよぎる アオスジアゲハ

 
 *名も知らぬ 老若男女と はしゃぎあい 特別列車に 手を振りし夏

  
 *バス停は 早くも旅の 話題なり 名古屋行き待つ 親子三人

 
 *芳しき びんつけ油 残り香よ 浴衣の力士 颯爽と行き


 *エベフルーレ 箕輪に住むと 知らぬ間に フランス語知る フェンシングの町


 *稜線の 彼方へ鳥が 消えゆくを 見届けており 夕焼けの空


 *幸水で 喉をうるおし 稲刈りを 再開させる 家族総出で


 *緑濃き 稜線われは なぞりたり もの書く合間の 眼にやさし
                                    昨・待井貴子