農文館2

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梅原猛さんと「和魂洋才」と「日本的霊性」(下)

2019-01-19 11:22:10 | 日記
 その後梅原さんが精力的に発表された『塔』、『歌の復権』、『黄泉の王』、『さまよえる歌集』、『聖徳太子・3部作』など、そしてこれらの作品が大胆な仮説の元に思索された成果であることを著した梅原学の核ともいうべき『考える愉しみ』の中に、仮説の元に独自の考えから出された自由な発想に、職業柄引用の多い学術論文に見慣れていた僕は、共感すると同時にその強烈な著者の個性に引き込まれてゆきました。さらに加えて、主に共著ではありましたが、仏像に関する著作も見逃せません。奈良、京都、鎌倉他(インド、パキスタン、スリランカ、タイ、ミャンマー)、古寺を訪れる度に拝観する仏像の中には、梅原さんから導かれたものも多くありました。と言うより10代から始まった古寺巡礼が今日も続いているのは、上述の亀井勝一郎や吉村貞司(『愛と苦悩の古仏』『古仏の微笑と悲しみ』他)とともに梅原猛・岡部伊都子の『仏像に思う』や望月信成・佐和隆研・梅原猛の『仏像』の言霊に触れて仏像を見る眼が、お陰様で多少は開眼した? からだと思っています。最近、時々読み返している『鈴木大拙禅選集』もその延長にあると言えるのかもしれません。

 実は、大学の講義や、これまでのこのブログ、そして本年の初めに取り上げた「文明から文化の再構築へ」でも、論考の核となっている日本の「近代化」について、取り立てて梅原猛さんの言説は紹介してきませんでしたが、僕がこれまで明治維新以降の「脱亜入欧」「和魂洋才」について疑問視し論及している根拠の一つには、先達の岡倉天心や和辻哲郎、夏目漱石、永井荷風等とともに、西洋的進歩史観に対する疑義と「日本的霊性」に与する同時代人の梅原日本学の援護があったのです。遅ればせながら、この機会に僕の「近代化論」についての脚注の一端をお話し、僕の講義を受講した皆さんやこのブログの読者の皆さんが、梅原さんの著作に触れていただければと念じています。今もなお続く「明治維新万歳論」にうんざりとしている僕の言説に少しのご理解を期待して。

 その意味からも、冒頭に引用した、「最後の知の巨人」という言葉は修正すべきだと思っています。野間世代の後、一部を除きその後の世代に懐疑的であった僕に、10数冊に及ぶ読書体験をさせてくれた言論人は梅原猛さんを措いてほかになく、そして何よりも、その痕跡を僕に色濃く残している以上、前言撤回は当然の事であり、その思いを改めて強くしています。

 梅原猛さんに敬意と感謝をこめて 合掌       平成31年1月19日   

梅原猛さんと「和魂洋才」と「日本的霊性」(上)

2019-01-18 11:50:34 | 日記
 「大西巨人さんとの最初の出会いは54年前、18才の時だった。(略)その大西巨人さんが昨日97歳で亡くなられた。野間宏、そして加藤周一に続いて、恐らく最後であろう小生にとっての知の巨人が去って行かれた。」(2014年3月13日付け「大西巨人と野間宏」より)      上述の文章は5年近く前に書いたものです。この14日、日本学の梅原猛さんが亡くなられました。享年93歳でした。野間先生や花田清輝、大西巨人や加藤周一とは一回り若い世代、戦争によって青春を奪われた世代、いわゆる「失われた世代」に属する人で、その「失われた世代」の中では際立ったた存在、僕にとっては、野間世代を引き継ぐ“考える”知識人を代表する一人でした。とりわけ梅原さんとは同い年で、「失われた世代」を代表するともいえた僕の義兄が昨年亡くなったと言うこともあって感慨深いものがありますが、知の人としての野間先生がフランス文学・哲学から浄土真宗を通じて仏教世界に深く浸透していったように、梅原猛さんも西洋哲学から研究の対象を日本の仏教・歴史探索に転じていったと言う点では共通したものがあったのです。      僕が、梅原さんの法隆寺、聖徳太子について書かれた『隠された十字架』や万葉の歌人柿本人麻呂の悲劇について書かれた『水底の歌』を貪るように読んだのは、1970年代初頭、野間先生からの影響や亀井勝一郎の『日本人の精神史』、石牟礼道子の『苦海浄土』などを通じて、文学的視座から僕自身仏教哲学に深くのめり込み始めていた頃でもありました。忘れもしないその一冊が岩波文庫版の鈴木大拙の『日本的霊性』でした。  

解題:「グローバル経済」と「文化の一翼としての美術館」

2019-01-06 11:34:58 | 日記
{解題}「グローバル経済」と「文化の一翼としての美術館」 
 
 年賀で取り上げた「グローバル経済」とは、新自由主義という名の下に資本(=人間)の欲望原理に突き動かされた自由競争経済の世界化を意味しています。哲学者バートランド・ラッセルは、グローバル経済が今日ほどには深化していない84年前の1930年代、その結末が社会の二極分化、結婚と家庭との忠誠を保持する上層階級と国家にだけ忠誠を感じる下層階級に分化すると指摘し、その後のドイツのヒットラー、イタリアのムッソリーニ、日本の軍国主義の台頭を予測しました。
 
 翻って今日の世界、アメリカ、ヨーロッパ、中東アフリカ、そして中国、日本はどうなのか? ヒットラーはベルリンが陥落して自死する間際、秘書にこう言い残したそうです。「自分は死ぬが、100年後第二のヒットラーが生まれるだろう」と。ヒットラーが同時代のフロイトをどれほどに知っていたか定かではありませんが、このヒットラーの最後の言葉の背後には、文明社会が人間を抑圧せざるを得ない中での人間の葛藤、つまり快楽(欲望)と現実との敵対関係を分析したフロイト的な人間観が読み取れなくはないという点で、ラッセルとともにヒットラーも過去の人ではないということを肝に銘じておきたいものです。

 「文化の一翼としての美術館」とは、芸術が個人のレベルでも歴史のレベルでも恐らく最もはっきりみえる「抑圧されたものの回帰」であリ、美学が独立したひとつの学問として確立されたのは文明の持つ抑圧機構への対抗であり、そしてそこは人間にとって感性と知性が出会う媒体であること、すなわちグローバル経済の負の側面としてのヒットラーの再来へのある種の対抗の場になりうるという期待感を込めたものです。、 

文明から文化の再構築へ(下)

2019-01-05 08:36:39 | 日記
 つまりこの転換はシュペングラーの言う文化から分明への転換を単純に受け入れるのではなく文化の持つ意味を充分に問い直すことが急務なのであって、むしろ時代は文化の評価にこそ目が向けられるべきなのであろう。
 
 文明が都市と不即不離の関係で発展してきたのと同様、文化・カルチャーが農業・アグリカルチャーと不即不離にの関係にあることはいうまでもない。端的にいうならば地域経済社会を問い直し、再評価し、さらに再構築するということである。都市文明が限りなき大量生産と大量消費を追及する中で、資源の涸渇化はもとより、エントロピー(汚れ)の増大により、都市文明そのものを危うくしている今日、こうしたいわば“巨人”型の都市経済社会とは対照的な、生態系循環に沿った比較的地球に優しい“等身大”型の農業を中心とした地域経済社会再建の重要性が一層増大してきているのであって、決してその逆ではない。
 
 例えば大都市のゴミ処理問題、水問題、自動車渋滞、通勤地獄問題など、いずれも独自の力では解決困難な状況なってきている。ゴミ処理、水問題にいたっては、地域経済社会への依存なしには成り立たなくなってすらいる。これは従来の都市依存型の狭義の経済の限界と行きづまりを示しているに他ならない。“地方の時代”は決して流行語の域に止まるものではないのである。

          (出所)『国際化を超える』北海道自治研修所、1992年3月「はじめ」より一部抜粋



文明から文化の再構築へ(上)

2019-01-03 12:01:53 | 日記
「シュペングラーは、来るべき時代が政治から経済の時代に移行すると洞察するとともに、文化から文明の時代になると予見した。この予見がほぼ妥当であったことは否定すべくもないが、その移行が“人類一般”の選択にとって良いのか悪いのかは別問題としても、経済の時代を単純に謳歌できない日本の事情はもとより、地球的規模でそれが問われていることを直視しないわけにはいかない。
 
 とりわけ、経済の時代が文明化作用を促進し、文化を片隅に追いやってきたと言う歴史を振り返ってみたとき、例えば文明化の典型としての大量生産、大量消費を不可避とする都市化の進展を見れば明らかである。都市化の進展・拡大による地域、農村社会、文化の衰退は日本のみならず地球的規模で拡がってきており、それがますます深刻化する南北問題、環境問題に関わってきていることももまた否定すべくもないのである。「西欧の没落」は、その予見性において高い評価に値するものの、現代社会の抱えている諸問題を直視するならば文明そのものが問われていると言う点で、すでに「西欧の没落」は越えなければならない通過点になっていると見るべくなのではなかろうか。
 
 その意味で、「経済学を超えて」たどりついた「成長の限界」は、石油を初めとした主要資源の埋蔵量・消費量の推定には問題があったにせよ、依然としてその有効性は失っていない。日本の経済的繁栄の基盤を築いた高度成長の理論的権威であった下村治氏が、石油危機に誰よりも早くゼロ成長を提唱したのは、まさに炯眼というべきであった。

                             『国際化を超える』北海道自治研修所、1992年3月 より