農文館2

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落ち葉を散布

2014-10-28 15:45:14 | 日記
 今年のお米の収穫は、これまでで最低でした。日照不足など天候も左右したこともあったのでしょうが、最大の理由は稲ゾウムシにやられたことです。例年通りでしたら、草取りをかねて、数回虫取りのために田んぼに入るのですが、今年は殆ど虫取りをしなかったのです。聞けば、知人の田んぼもカメムシで難儀をしていたとのことでした。慣行農業と違い、有機農業は手抜きをすれば結果は一目瞭然だと言うことでしょう。いつの間にか馴れ合って、お米さんへの愛情が不足した結果でした。

 そんな反省もあって、秋日和の今日、昨日の木枯らしで道路に落ちた枯葉をかき集め、田んぼに散布しました。康花の闘病と死去以来、少なくとも7年間は、落ち葉を田んぼに散布することは忘れていました。落ち葉の田んぼへの散布は、今は、原発で福島から三重県に移住したMさんから教えて頂いた、収穫後の田んぼの土づくりの一つでした。そのMさんと東京で開いた「須藤康花展」でお会いしてから早5年、ご無沙汰が気になりながら落ち葉集めをしました。紅葉は未だ盛りを少し越えたばかりなので、落ち葉の量も未だほどほど、来週もまた続きをやることになるでしょう。

 化学肥料、除草剤、殺虫剤の使用はGDPを大きくし金回りを良くしますが、小生の肉体労働はGDPへの寄与率はゼロ、しかも慣行農法をやっている農家から見れば迷惑至極になります。しかしその一方、気にかかったことが他にもありました。蛙とトンボの数が少なかったことです。トノサマガエルにいたっては目にしたのは僅か2匹、蛙を好物とする山かがしには一度もお目にかかりませんでした。10年近く前には、わが田んぼでギンヤンマが舞っているのに感動したことを覚えています。それ以来今は経験することはありません。もちろん彼等がいてもいなくても、経済学者がGDPへの寄与率を考慮するわけではありませんが。

 生きとし生けもの、手抜き、愛情不足では良きものは育ちませんが、と言って、全てに気配り、愛情を注ぐこともまた難しいことではあります。

癌を克服した遠来のSさんに深謝

2014-10-13 10:33:58 | 日記
 11日土曜日、遠来の客、東京から中年の女性Sさんが一人で美術館にやってきました。聞けば康花に一度会ったのことで、その時の康花の印象が強く焼きつき離れなかったからだと言います。
 
 それから数年して、Sさんは癌を患い入院生活を余儀なくされます。詳しくは聞きませんでしたが、あるいは康花の闘病生活と重なる頃であったのかもしれません。康花と同じ病であったことにもよるのでしょう。Sさんは、何といっても辛かったのは癌の痛みと、手術後の抗癌治療であったと、往時の康花に同情するかのように言いました。そしてさらにSさんを苦しめたのは鬱病でした。抗癌剤服用による副作用と、これ以上命を全うできないのではないかという不安から、強度の鬱病を併発してしまったのです。それでも恐らく、Sさんの仕事への情熱(イラストレーター?)が死を遠ざけることになったのでしょう。抗癌剤を止め漢方のせんじ薬に切り替えた結果、副作用が消えてゆくとともに鬱病も徐々に解消していったとのことでした。

 そんな時に、Sさんはネットで康花が同じ癌で亡くなったことと、康花美術館のことを知ります。「いつか康花さんの美術館を訪れよう」。しかし東日本大震災がそれを阻みました。福島県いわきの実家が被害にあったため、一時期他府県への移住を余儀なくされてしまっていたからでした。それから3年半、実家も修復しどうにか生活できるようになり、Sさんは東京に在住しながら仕事にも復帰しました。そして今日、漸く康花美術館へ足を向けることが出来たのだということでした。

 現在展示している作品の中には、「私は形」、「双眼」、「隻眼」、「ブリキの太鼓」など、いずれも康花が自分の顔をモデルにした作品が含まれています。『幻想か 現実か―食と戦場と人間』という企画で、シュール的な作品など必ずしも康花の「顔」が見えない中で、幸いにして、これらの作品は、十数年前の康花を想い起こしていただくに充分なようでした。

 Sさんは言います。「康花さんが私に焼き付けたものはピュワ―としか言いようのないものでした。」。あたかもこれらの作品と当時の康花、そして彼女自身と重ね想い起こすかのように、Sさんは「ピュワ―」と言う言葉を繰り返しました。Sさんに話すことはしませんでしたが、康花の好きな言葉の一つも「ピュワ―」でした。

 信濃毎日新聞、松本市民タイムスのコラムを初め、朝日新聞、中日新聞など他紙にも何度か取り上げて頂きましたが、相変わらず来館者が少ない中、Sさんのような方が遠路はるばる来館して頂けたのは、康花にとって、美術館にとって何よりの贈り物でした。Sさん有難うございました。くれぐれもお体を大事になさり、お仕事にも励んでください。

 

マグロとウナギの教え

2014-10-04 10:07:53 | 日記
 マグロとウナギ、ともに絶滅の恐れがあるとして、世界最大の消費国である日本は漁獲の自主規制に踏み出しました。日本の食文化を危惧して様々な声もあるようですが、どこか視点がずれているように感じています。その最もたる声の一つが、養殖に対する期待です。近畿大学のマグロの養殖に味を占めてか、柳の下の泥鰌ならぬ、鰻よ! ということなのでしょうが、ことわざ通り、もう一匹狙うのは強欲というものです。周知のとおり、私たちが口にするウナギのほとんどは養殖です。その養殖の稚魚であるシラスそのものが絶滅危惧種の仲間入りとなっているのです。
 
 そもそも、マグロの養殖も、養鶏、養豚、養牛と同じであって、稚魚が成魚になって我々がマグロの刺身を口にするまでには、イワシを初めとした大量の小魚をマグロに与えなければならないのです。鶏1キログラム生産するのに約2キログラム、豚が4キログラム、牛が10キログラムの穀物飼料を要するのと同じです。日本の人口減少とは裏腹に、途上国の人口増加によって世界の食糧需給が逼迫している中、成金国の贅沢の為に、一次食糧となる穀物や小魚を無駄に浪費していることにこそ、もっと目を向けるべきなのです。イスラム諸国で起きている内乱も、根底には貧困と飢餓が絡んでいるからです。ローマ法王も危惧するように、第三次世界大戦の恐れなしとしない世情なのです。

 前回取り上げた、宇沢弘文さんの「社会的費用」を敷衍するならば、マグロ養殖の「社会的費用」は必ず「つけ」として回ってくるはずです。生態系の破壊は言わずもがな、現実にマグロもウナギも食べ過ぎて絶滅寸前に至っています。加えて高度成長下の肉食の浸透によって、成人病ならぬ、子供たちにも広がっている「生活習慣病」=慢性病の増大による国民医療費の拡大が、経済的にも不合理であることを如実に証明しています。
 
 食も含めて大量消費の時代は終わったのです。右や左を問わず、政治家やマスコミ、そして一部の我田引水型の学者の言に惑わされて、いつまでも経済成長に夢を託すのは終わりにしたいものです。「つけ」を払わされるのはいつの時代も庶民です。不況、失業、家庭崩壊、犯罪、戦争、そして老後破産、いずれも真っ先に犠牲となるのは下々であってお上ではありません。
 柳の下の泥鰌はいない、ことになっていますが、実はいたとしても捕ってはいけない、古人の戒めだったように思います。古人重ねて曰く、「過ぎたるはなお及ばざるが如し」、「糖衣飽食」に未来なし。

稲刈り・はさかけ、そしてコンバイン

2014-10-01 10:53:15 | 日記
 29、30日、美術館の休館日をぬって稲刈りとはさかけをしました。稲刈りは手刈りと稲刈り機と併用です。毎年のことですが、乾き切っていない泥田の部分は手刈りで、乾いた部分は稲刈り機を使います。これも、この2、3年、毎年のことですが、稲刈り機の紐結束の箇所が、紐が絡んで難儀をしています。今年も、朝8時から始めたのですが、運転間もなく紐が絡んで、その修復に1時間半、貴重な時間をロスしました。でも何とか夕方6時までには刈り終えて、翌日30日午前中一杯で、はさかけも完了することができました。

 すでに29日の午後の段階で、足腰に痛みを覚えて、果たして来年も続けられるだろうか、と自問もしていましたが、痛みの中で翌30日にはさかけを終え、それなりに、昨年並みに2列の竿に掛けられた黄緑色の稲穂の姿を見ていると、いや来年もという気持ちの方が強くなってきます。実りの秋、稲刈りを終えて、田んぼに並ぶはさかけの風景は、それほどに僕たちには元気を与えてくれるようです。

 しかし、残念ながら、ここ数年、僻地麻績村でもその風景が見られなくなってきています。稲刈りから脱穀まで、コンバインの登場で、手間暇かかる稲刈り、はさかけ、脱穀を止める農家が増えてきたためです。もとより、農家の人たちの高齢化による肉体的劣化が、使用料の高いコンバインの利用に拍車をかけているです。わが連れ合いも、来年からはコンバインで、とちょっと口にはしましたが、わが田のはさかけ風景を見てか、二度とは口にしたかったことを見ると、それなりに満足しているのかな、とも思っていますが、確かに、いつまで続けられるのだろうか、という不安はついて回っているこの頃です。

 安倍さんの「地方創生」大いに結構。でも「一村一品運動」以来、いやそれ以前からも、どれほどに地方農村の衰退と復興が政治の場で繰り返されてきたことでしょう。一年やそこらで変わる大臣たちに地方の実態が分かろうはずもありません。霞が関の政治家や役人、それに学識経験者さんたちに望むのは、せめて任期中だけでもご家族と一緒に、僻地農村で生活したうえで、言葉を発し、政策につなげてもらいたいと思うことしきりです。はさかけの少なくなった、歯抜けのような田んぼの風景がそれを訴えているようにも思います。「美しい日本」を口にする皆さん、「田園、正に荒れなんとする」の段階は、すでに過去形の状態になりつつあるのです。
 ちなみに米価は60キロ当たり約7、8000円、生産費の半分以下、やっていられないにもかかわらず、米作りをしているのは、先祖代々の田んぼを荒れ地にし切れない、農家の人たちの心情によるところ大なのです。それに加えて「天日干し」のお米が消えてゆくのも、これまた残念なことです。