農文館2

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地震お見舞い、有難うございました。

2014-11-24 12:31:58 | 日記
 一昨日の長野北部の地震では大変ご心配をお掛けしました。
 わが庵は、長野中北部、坂北村と大岡村(長野市)に隣接した場所で、気象庁の発表に基づけば、震度は5弱でした。こちらに移住して十余年、これほどの強い揺れを経験したの初めてでした。幸い書棚の本が少し崩れた程度で、何の被害もなく無事に過ごすことができました。松本の美術館も被害はありませんでした。
 地震の起きた当日、あくる日、そして今日と、友人、知人からお見舞いの電話をいただきました。この場を借りて、改めて御礼申し上げますとともに、被害にあわれた方々には心よりお見舞いを申し上げます。
 寒暖差の激しいこの頃、くれぐれもご自愛下さいますよう。

キリスト教会を訪問(続き)

2014-11-10 17:56:51 | 日記
 つまり、彼女は、明るく快活に振る舞えば振る舞うほど内向し、「自己否定」した自分を肯定し、生かすために、「闇と光」に代表されるような暗いイメージを抱かれがちな作品を生み出さざるを得なかったのです。それは世俗的な誇りとは縁なき、芸術家としての誇りを矜持するためでもありました。生前、ポピュラーな作品も描いてはどうかという提案に対し、一切耳を貸してもらえなかったことが、そのことを思い出させもします。唯一、親しみやすい作品として、『田舎の詩情』の風景画がありますが、この作品も、第三者を意識して描かれたのではなく、彼女の内面が如実に表現されているという点では、やはり彼女の世界観を正直に表現した作品です。

 今回、美術館では「苦悩より歓喜へー須藤康花版画展」と題して特別企画展を開いています。チラシの案内状には、「今回は作者が晩年心血を注いだ銅版画を中心に展示いたしました。若き作者の精神的苦悩と病魔の苦痛を克服するために制作された作品たちを、是非ご覧くださいますようお願い申し上げます。」と書いています。まさに、「暗いイメージで捉えられがちな」作品ばかりです。しかし、繰り返しますがそれは「誤解」なのです。

 そんなことを考えているうちに、「誤解」だということを最も身近に理解していただける方がたたちがいることを見過ごしていることに気付いたのです。松本駅で下車してから美術館までの行き帰り、いつも目にしている教会です。康花は生前何度か自死を意図しましたが、それを回避できた精神的支柱の一つになったのが、聖書の贖罪でした。彼女は中学時代、キリスト教系の学校で聖書を学んでいると同時に、その後、キリスト教の影響の強いトルストイ、ドストエスキーの作品などを繰り返し読んでいます。事実、作品の中には人物の横に小さく十字架を描いている『祈り』と題した絵の他、『白夜』、『流転』など彼等ロシアの文豪の影響を受けた銅板作品があります。魂の救済を宗教に求める人たちが少なくなっている今日、活動が目立つキリスト者の方がたに是非見て頂きたい、と思い至ったのです。
 
 今日9日は日曜日、ミサがあるはずです。早朝、お忙しい時間、ご迷惑も顧みず、教会を訪問したというわけです。幸い牧師さんは快くお会いして下さり、彼女の人となり、作品内容を簡単に説明させていただくことができました。改めて御礼申し上げます。
 ちなみに、彼女はキリスト者ではありません。埋葬されているのは真言宗の仏寺です。今回展示している作品の中にも『彼岸』とか『輪廻』と言った仏教の影響を受けたものもあります。

 閉館間際、6回目と言う青年が来館されました。彼曰く、度々来館するのは「作品を通じて康花と対話すること、そして自分自身を振り返り、見つめる」のだそうです。そして言います。「彼女は死んではいない。生きている。」と。

 松本にお越しの折りには是非お立ち寄り下さい。お待ちしております。

 

キリスト教会を訪問

2014-11-09 11:03:22 | 日記
 有機農業と同じように美術館の運営もなかなか難しいです。新聞やテレビでもたびたび取り上げて頂いているけれど、ここのところ、来館者の数は開館当初に比べると大分少なくなっています。二度三度、四度と来られる方は別として、だんだんと初めて来館される方の数は減っています。原因はいろいろありますが、何よりも、美術館の場所が、松本市内とはいえ、松本駅から25分近く歩く人通りに少ない住宅街にあること、それと有名な作家でない上に、作品自体が暗いイメージで捉えられがちなのに加えて、今日的には日本人の最も嫌う「自己否定」という、流行りの言葉で言えば「自虐史観」的に似た色合いをしていることにもよるのでしょう。もちろん、まだ来館されていない方々には、作品がどういうものであるかどうかも分からないはずなのですが、広告のチラシを初めとして、テレビや新聞の紹介内容を見る限りでも、そのような「誤解」を受けやすいようです。

 「誤解」と言ったのは、作家康花が「自己否定」しながらも、一方で「自己否定」した自分を認めて、作家活動に熱き心をもって向かい合い、短い生涯を捧げたことでした。とかく人は、己の出来の悪さを自問するより他人に擦り付けたがりがちになるように、自己否定することは苦手です。まして自己否定した自分を認めるような人間は鬱陶しくさえ感じることでしょう。とりわけ、世俗的な誇り高き人には忌避したいタイプの人間ということになるでしょう。もっとも、生前の彼女は、その思いを誰にも漏らすことはありませんでしたが、というより、病の苦痛と精神の苦悩を封印し、反対に明るく快活に振る舞っていたと言った方がよいので、表面的には好感度抜群であったのです。





「有機農なんて止めたら」? を考える

2014-11-05 19:22:03 | 日記
 3日、4日の午前中、先週に続いて落ち葉集めをして田んぼに散布しました。幸い雨も降ることなく、四方の紅葉を満喫しながらの充実した時間でした。まだ田んぼの全面には及んでいませんが、日蔭となっている東側の木々の葉が、これから落ちてくることになるので何とかその辺りは埋めてくれることになるでしょう。

 作業の最中、近くの専業農家の方に朝の挨拶をしました。返事は返ってきませんでした。時々無視されることもあるのであまり気にはしませんでした。かつてこの地に移住してきた当時、ほぼ2、3年返事をしてくれないご老人がいましたが、それもいつ日か声をかけられるようになりました。原因はよそ者であったほかに「有機農法」に取り組んでいたことにもあったような気がします。集会でもたびたび有機を「趣味でやっている」とも言われていました。でもそれもいつしか聞くようなこともなくなりました。
 
 ところが最近、「有機農なんて止めたら」という声を人伝に聞きました。農家の方ではなかったので、これもまた気に留めませんでした。このブログでも何回か取り上げているように、高齢の専業農家の方が有機農法をやるには負担も多く難しいことです。したがって、彼らから、仮に揶揄されたとしても、実際にもそんな声を耳にすることはありませんでしたが、致し方のないことだとも思っていました。
 たまたま一昨日、返事なしの農家の方に接し、気に留めていないはずの「有機農なんて止めたら」の声が頭をよぎりました。もちろん、返事なしの理由がそれであると思ったからではありません。なぜなら、この14年、彼とは、挨拶なしより、挨拶し合う方が圧倒的に多かったからです。

 しかしながら、考えてみれば、「有機農なんてやめたら」と言った農家でない人の声も、まんざらその人だけの声だけではなかったともいえるかもしれません。独自の意見として言ったのだとすれば、それはそれで立派ですが、大方は「世の習い」に添ってのことのように思われます。そうだとするならば、答えは明白。もともと、「有機農なんて止めたら」と言われたのも、我が家の今年のコメの出来が「良くない」ことから発したもので、まずまずの慣行農家の出来と比べてみれば、一目ではないにしても明明白白、世論に押されての発言だったのでしょう。

 そんなわけで、7年振りの落ち葉の散布にも力がこもりました。思い起こせば落ち葉を散布していた頃の出来は、少なくも今年より良かったことは確かです。中傷誹謗? にも理あり。教えられ学ぶことは多々あります。