農文館2

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井野論文読後雑感(7)科学的認識とは「無知を知る」こと

2017-02-10 09:31:46 | 日記
井野さんは「脱原発の技術思想」(『世界』2017年2月号)で次のように結んでいます。少し長いけれど引用しましょう。
「原発に限らず、われわれはどういう技術を選択してゆくのか、それが問われている。「市民と共同しながら」と書いたが、市民あるいは社会はどういう技術を志向するのか。それは市民がどういう社会で生活したいかという価値観に依存している。脱原発の思想はその問題につながっている。科学や技術は、現在の社会システムに組み込まれた社会的存在であり、その社会を動かしている政治的・経済的・社会的要因によってその方向が決められている。市民個々人の考えだけで決まるものではない。社会システムを変える活動と相まって技術を選択してゆくしかない。」

 ブレヒトもチャップリンも、近代科学に対する「批判」は、究極、エンドマークでは“愛”
で結ばれることに解を、求めていますが、現代に生きる私たちには果たしてどうか? ましてや、ガンジーやタゴールの世界、卑近な例で言えば良寛の世界、思想とは隔絶の間のある今日、夢物語とは承知しながらも、井野さんの結びを追いながら、筆者は彼らの思想哲学を改めて思い起こさずにはいられませんでした。

 井野さんは、脱原発の技術思想の根幹には、「科学や技術には知りうるに限界があること」に求められる」としていますが、この言葉に合わせて、1954年のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験を通じて、翌年の核兵器の廃絶を訴えた「パグウオッシュ会議」を呼びかけたイギリスの哲学者バートランド・ラッセルの言葉をもってこの「雑感」の締めくくりとします。
 
 「科学という権威は、その時々の科学的の確かめられたと思えることのみを宣告するのであって、それは無知の大洋における小さな一つの小島にすぎない。」

井野論文雑感(6)科学の父ガリレイは有罪? それとも無罪?

2017-02-07 09:20:34 | 日記
 『モダンタイムス』から遅れること2年後の1938年に、ブレヒトは『ガリレイの生涯』を発表します。小生が千田是也訳で知ったのは『苦海浄土』の前だったでしょうか、後だったのでしょうか。これまで、科学の生みの親として尊敬の念を一身に受けてきたガリレイに対し、ガリレイを異端審問所で有罪としたバチカンは常に悪者扱いにされてきました。少なくも小生の受けた教育環境はそのようであったと思います。ところがこの戯曲は、ガリレイの証言を含めて当時の資料を入念に調べた上で、決してそのようには描かなかったのです。ブレヒトは「ガリレイの自説撤回が、多少の「動揺」を伴いながらも、結局は理性的な行動だったとして描いるのです。そして続けます。「その基礎づけは、この撤回によって彼が科学研究を継続し、後世に伝えることができたという点にある」と物理学者がいうとしたら、それはお門違いだろうとし、「ガリレイは天文学および物理学を豊かにしたことは事実である。だがそれと同時に、これら科学の社会的意義をそのためにほとんどすべて剥奪してしまったのである。」と。これは、初演後9年後、つまり1945年8月に広島に原爆が投下された2年後の1947年に、アメリカでの上演のあとがきで述べられたもので、ブレヒトは続いて次のようにガリレイを問い詰めているのです。

 「ガリレイの罪は近代科学の「原罪」とみなすことができよう。新しい天文学は、時代の革命的な社会潮流に拍車をかけるものであったために、新しい階級、すなわち市民階級のきわめて深い関心を呼び起こしたが、ガリレイはそれを、きびしく限界づけられた一特殊科学と化してしまった。そしてその後の科学は、その「純粋性」、すなわち生産過程に対する無関心のおかげで、比較的安泰な発展を遂げた。原子爆弾は、技術的現象としても社会的現象としても、ガリレイの科学的業績とその科学的無能とのクラシックな最後の作品である。」(『ブレヒト戯曲選集3』、白水社、1970年)

井野論文読後雑感(5)科学者はチャップリンから何を学んだのか?

2017-02-05 10:55:29 | 日記
 チャップリンの『モダンタイムス』(1936年)は、当時アメリカで取り入れられていた企業経営における新しいシステム、「科学的管理法」、別名「テイラー・システム」の一環としてのベルトコンベアー・システムの元で働く労働者が、生産過程の中で機械の一部にされてしまう姿を面白おかしく描いた作品です。
 マルクスの資本主義対社会主義という二極対立の中での人権「疎外論」を超えて、進歩する科学と技術の一方の危うさを映像で解かりやすく解き明かしたという点で、それは「産業主義」自体が持つ暴力の大きさを暴き出すものでした。チャップリンにはこの他、ヒットラー(だけでなく大衆も)を風刺した『独裁者』(1940年)という作品がありますが、「ポピュリズム」という言葉?が 世界中を席巻している昨今、庶民の代表ともいうべきチャップリンが演じた主人公に、私たちはこの間どれほどの事を学んできたか、改めて反芻せざるを得ないでいます。 

井野論文読後雑感(4)経済学を超えた『苦海浄土』

2017-02-03 09:26:31 | 日記
 丁度同じ頃、水俣病や四日市喘息などの公害病が表面化する中で、手にしたのがケネス・ボールディングの『経済学を越えて』であり、ローマクラブの『成長の限界』であり、都留重人の『公害の政治経済学』であり、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』であり、石牟礼道子の『苦界浄土―わが水俣病』でした。

 とりわけ石牟礼の『苦海浄土―わが水俣病』は決定的でした。柳田や宮本が対象とした路傍の民衆、それも我々と同時代の庶民の優しさと切なさ、悲しさ、美しさ、逞しさを、学術用語でもなく東京弁でもなく、現地水俣の言葉で活き活きと語りかけるよう文体にはこれまでにない感動を覚え引き込まれるものがありました。文学的優劣の評価は別として、同じように前近代を追求した深沢七郎や秋元松代の世界以上に石牟礼の水俣は現代の現実の姿として生々しく迫ってきたのです。正に経済学的言説としての北側の「比較優位説」を衝く南側の「人間的反論」でした。多少の疑問を感じながらも、小生がこれまでに刷り込まれてきた価値観、端的に言えば曖昧な「進歩史観」に楔が打ちこまれ、「経済学を超える」ことを余儀なくされる瞬間でもありました。宇井純、宇沢弘文、玉野井芳郎、武谷三男、星野芳郎、柴谷篤弘、ボランニー等を知るのはこの頃になります。

 しかしながら、彼らの科学と技術に対する問いかけに耳目を傾けるきっかけとなったのは、もとより公害問題を抜きに考えられませんが、その思想的基盤は、筆者の場合、石牟礼に感じたように、すでに芸術家であるチャップリンとブレヒトにより多く負っていたと思っています。当然と言えば当然ですが、いわば科学者の発言はその各論に当たるものでした。

井野論文読後雑感(3)ガンジーとサタジット・レイ―日本型経済発展に疑問

2017-02-02 09:52:09 | 日記
 そしてこうした感覚的、悟性的認識を通じた理性的認識にも限界のあることを気づき始めている最中、正に経験主義的認識の批判の例証となるような、いわば「予期せぬ」事件が、同時進行的に日本全土を覆い始めていたことでした。公害問題です。

 当時、在職していた研究機関での小生の関心事は「南北問題」についてでしたが、その考え方の主流は官民問わず「雁行型経済発展」、つまり日本を先頭に、自由貿易によってアジアの途上国が後をついてくるという理論でした。小生は、マルクスの搾取と剰余価値を柱とする「生産様式」の枠組みから、周辺途上国の「従属論」を唱えたフランクやサミール・アミンに惹かれる一方で、途上国の日本型経済発展には疑問を抱いていたこともあり、それ以上に、アジアの近代化をめぐって社会学・民俗学的視座から論及したグンナー・ミュルダールの『アジアのドラマ』の方に関心の軸足は傾いていました。
 インドの映画監督サタジット・レイの『大地の歌』(三部作)などの作品とともにガンジーやタゴールに強い共感を抱いていたことと、ストロースの『野生の思考』にも少なからず影響を受けていたことにもよりました。そして度々調査で訪れていた東南アジアでの体験が、かつて英国の植民地ビルマ(現在のミャンマー)やインドを描いたジョージ・オーエルの『像を撃つ』、E.M.フォスターの『インドへの道』に重なり、古典派のアダム・スミスの「国際分業論」、ダビット・リカードの「比較生産費説」に対する疑問を一層深めてもいたからです。当然、当時学会で脚光を浴びていた、リカードの「比較優位説」を進化させたとされるヘクシャー・オリーン・モデルにも同調出来得ないでいました。