井野さんは「脱原発の技術思想」(『世界』2017年2月号)で次のように結んでいます。少し長いけれど引用しましょう。
「原発に限らず、われわれはどういう技術を選択してゆくのか、それが問われている。「市民と共同しながら」と書いたが、市民あるいは社会はどういう技術を志向するのか。それは市民がどういう社会で生活したいかという価値観に依存している。脱原発の思想はその問題につながっている。科学や技術は、現在の社会システムに組み込まれた社会的存在であり、その社会を動かしている政治的・経済的・社会的要因によってその方向が決められている。市民個々人の考えだけで決まるものではない。社会システムを変える活動と相まって技術を選択してゆくしかない。」
ブレヒトもチャップリンも、近代科学に対する「批判」は、究極、エンドマークでは“愛”
で結ばれることに解を、求めていますが、現代に生きる私たちには果たしてどうか? ましてや、ガンジーやタゴールの世界、卑近な例で言えば良寛の世界、思想とは隔絶の間のある今日、夢物語とは承知しながらも、井野さんの結びを追いながら、筆者は彼らの思想哲学を改めて思い起こさずにはいられませんでした。
井野さんは、脱原発の技術思想の根幹には、「科学や技術には知りうるに限界があること」に求められる」としていますが、この言葉に合わせて、1954年のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験を通じて、翌年の核兵器の廃絶を訴えた「パグウオッシュ会議」を呼びかけたイギリスの哲学者バートランド・ラッセルの言葉をもってこの「雑感」の締めくくりとします。
「科学という権威は、その時々の科学的の確かめられたと思えることのみを宣告するのであって、それは無知の大洋における小さな一つの小島にすぎない。」
「原発に限らず、われわれはどういう技術を選択してゆくのか、それが問われている。「市民と共同しながら」と書いたが、市民あるいは社会はどういう技術を志向するのか。それは市民がどういう社会で生活したいかという価値観に依存している。脱原発の思想はその問題につながっている。科学や技術は、現在の社会システムに組み込まれた社会的存在であり、その社会を動かしている政治的・経済的・社会的要因によってその方向が決められている。市民個々人の考えだけで決まるものではない。社会システムを変える活動と相まって技術を選択してゆくしかない。」
ブレヒトもチャップリンも、近代科学に対する「批判」は、究極、エンドマークでは“愛”
で結ばれることに解を、求めていますが、現代に生きる私たちには果たしてどうか? ましてや、ガンジーやタゴールの世界、卑近な例で言えば良寛の世界、思想とは隔絶の間のある今日、夢物語とは承知しながらも、井野さんの結びを追いながら、筆者は彼らの思想哲学を改めて思い起こさずにはいられませんでした。
井野さんは、脱原発の技術思想の根幹には、「科学や技術には知りうるに限界があること」に求められる」としていますが、この言葉に合わせて、1954年のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験を通じて、翌年の核兵器の廃絶を訴えた「パグウオッシュ会議」を呼びかけたイギリスの哲学者バートランド・ラッセルの言葉をもってこの「雑感」の締めくくりとします。
「科学という権威は、その時々の科学的の確かめられたと思えることのみを宣告するのであって、それは無知の大洋における小さな一つの小島にすぎない。」