農文館2

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荒起こし・代かき始まる

2014-04-28 16:25:34 | 日記
 先週に引き続き、思い出の地、隣村の大岡の棚田まで自転車(電動)で行って来ました。桜は今が盛りと咲き誇り、木々の新芽も先週よりは色づき始め眼を楽しませてくれました。棚田は荒起こし(春起こし)の済んでいるところと、すでに代かきを終えたところもあリ、漸く田んぼの季節が到来してきたのを、十余年前娘・康花と歩いて来てこの地に立ったときの事を想い起こしながら、同じように感じていました。
 ただ当時の景色と幾分違うのは、当時は目にすることのなかった鹿や猪等獣避けの電線網が棚田の周囲にはりめぐされていることでした。よく見れば、荒起こしの済んでいないところの中には明らかに耕作放棄と思われるところが点在していたことでした。先週、長野県の専門研究者であるKさんに電車の中でお会いした際、耕作放棄と過疎化が、獣が里に下りてきて田畑を荒らす原因となっている、と会話を交わしたばかりでしたが、正に電線網の囲い込みはそのことを象徴するものだったのです。わが集落の田んぼが同じような状況にあることは、すでに度々触れてきたとおりです。昨日の27日日曜日の早朝は、代かき田植えに備え、集落の用水路の清掃日でしたが、そこでも話題になったのは獣による被害のことでした。聞けば、わが畑の近くで、数日前の夜中、5、6頭の鹿を目撃したとのことでした。狩猟許可証を持っているSさんによれば、「駆除」仕切れないほど増えているとのこと。
 
 眼下に広がる大岡の棚田を眺めながら、十余年前と変わらないのは、眼前に迫る白いアルプスの峰峰だけなのかもしれないと、新たな思いを重ねていました。ちなみにわが家の田んぼの方は、代かきは来月15日前後、田植えは20日過ぎになる予定にしています。
 それにしても先日読んだ作家の辺見庸さんの言葉(佐高信さんとの対談)が引っかかっています。安倍政治を危惧する余り(それには全く同意)、「田舎に帰ります、というわけにはいかない」(『週間金曜日』2014年4月25日号)と語っていますが、現実は田舎も危機、いや田舎こそが危機となっていることは、原発そして事故でも明らかです。この国は、今も昔も都会の「知性」だけでは変えようがないにも拘らず、残念なことです。

鶯の声は?

2014-04-14 11:12:03 | 日記
 朝晩は未だ震えるような寒さが続いている毎日ですが、久方振りのワン君との遠出の散歩で、僕にとっては今年初めての鶯の鳴き声を聴きました。例年でしたらわが家の周辺ですでに耳にしている頃なのですが、今年は未だ耳にすることがなかったので心配していたところでした。我が家より4,50メートル上の山の中でしたが、鳴き声はすっかり正調に近いものでした。 残念ながら、こうしてブログを入力していても、我が家では未だ耳にすることは出来ません。でも梅の花がぽつぽつと開き始めたところを観ると、鶯がわが家の庭に下りてくるのもそう遠いことではないのかもしれません。こんなに鶯を待ちわびるのも、ことのほか寒さに堪えているからなのでしょうか。昨年来、治癒長引くシモヤケは、今年も5月までは持ち越しそうな気配です。

 ところで、特定秘密保護法、武器輸出、集団的自衛権、原発輸出の解禁、戦後世代の声が大きくなるにつれ予測できたこととは言え、これらの問題は戦後民主主義の中で越えてはならない一線でもあっただけに、多少古い世代に属する僕たちにとっては、精神衛生上を越えて肉体的にも耐え難い寒風に晒されている思いでいます。これも体調不良の原因かと? 勘ぐることしきりです。 振り返れば、中曽根さん辺りを切っ掛けに、小泉さん、そして野田さんとここに至る下地は大分前からあったのですが、まさかこれほど通過儀礼的に事が運ばれるとは思ってもいませんでした。最大の責任は、太政翼賛化し批判力を失ったマスコミにありますが、もとと言えば日本国民の資質の問題でもあるのでしょう。原発再開の動きが象徴的です。

 「春よ来い! 早く来い!」 鶯とともに。

米作りの準備

2014-04-09 09:45:44 | 日記
 6日日曜日はわが集落の春祭りでした。五穀豊穣を願っての毎年の行事ですが、海抜900メートル近くの春は例年いなく遅く、当日の早朝も雪が降るほどの寒さでした。フキノトウやツクシは芽を出しましたが、桜はもとより梅の花もまだ開花していません。とりわけ鶯の鳴き声がしないのが気にかかります。
 そんな中、先週と今週の休み明け、美術館の仕事の合間をぬって、田んぼの整備をしました。溜池と用水路、それに水溜、排水溝の整備です。今年は例年になく大雪が降ったため、田んぼの乾きも遅く足がぬかって少し難儀しました。でも何とか無事に終え、後は月末の田起こし、肥料散布、そして5月の連休の代かきを待つばかりです。

 出勤途上の今朝、目にした松本城のお濠の桜は少し開花し始めていました。白く輝く北アルプスの山々をバックに、ほんのりと色づいた柳の葉とのコントラストに急ぐ足も緩くならざるを得ませんでした。一足早く松本にも春はやってきました。こちらにお越しの折には美術館にもお立ち寄りください。

「裸婦変容ー詩・死と乙女」(上)

2014-04-06 10:28:49 | 日記
 「裸婦変容ー詩・死と乙女」とは、4月から康花美術館で開かれている企画展のタイトルです。裸婦像を中心に詩作を交えながら須藤康花の死生観・芸術観について見つめようとした企画です。

 作者は2000年9月21日、22歳の時に「水滴のように」と題し、次のような詩を残しています。

 私は私の人生の中で今以上
 自分の顔を愛することはないだろう
 もしかしたら そう考える前に
 私の生涯は終わってしまうかもしれない
 私が母の50代を想像できなかったように
 私も又年老いた自分を想像できないのだ
 今この数年にしたって
 流れ落ちる水先の一瞬の水滴のように
 私はぎりぎりの皮一枚の運命に
 辛うじてつなぎとめられている気がするのだ

 その一週間後、「私」と題する詩の中で、自分の顔を描写しています。

 帰りの電車の中で
 暗がりの窓に映る自分の顔を見た
 ぼんやりとした輪郭は嘘くさく
 くぼんだ眼と むくんだ顔が
 不様な悪臭を必死で取り繕っていた

 
 

「裸婦変容ー詩・死と乙女」(下)

2014-04-05 11:03:06 | 日記
 裸婦像はデッサンと水彩、それに油彩からなっていますが、デッサンが生身の女性を描いたとするならば、油彩の裸婦像は朽ちゆく死、水彩はその狭間としての夢幻を表現しようとしたように思われます。「水滴のように」の隣には、水彩で描かれた作者の「自画像とデスマスク」が展示してありますが、絵について作者は制作年次を明記してありませんので、詩との関連は推測の域を出るものではありません。しかし自分の顔をここまで突き放した「私」は、畢竟、死を描くしかなかったように思えるのです。自分のデスマスクは客観視され、「死と変容」に現れた油彩の裸婦像たちに繋がって行きます。しかしそれは又、けっして「悪臭を必死で取り繕っていた」「私」自体を描くことではありませんでした。作者が最も自分を愛したであろう十代半ばを描いたと思われる油彩の自画像「美しい人」がそのことを語ってもいます。それは死してなお生きる乙女の姿でした。

 「水滴のように」「私」の3年後に詩作された「溢れる魂」では次のような言葉を残しています。

 成長しなければ
 今の私はまるで白痴
 否 その方が美しい
 言葉は全て虚しい
 だからなおさら書けなかった
 でもいつか
 溢れる魂に駆られて
 綴ることができるように
 なりたい

 その答えの一つが? 死を生きる女性の美しさを綴ろうとした、闇の中に描かれた「光の調べ」や「沐浴」でもあったのでしょう。そしてこれらの作品や詩の創作は又、彼女の悟性としての思惟が、常に自己否定と矛盾を繰り返しながらも、彼女がその解決に苦悩こそすれ絶望しなかった理由にもなったのです。