農文館2

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青少年の残虐事件と平和国家日本ー内なる病(下)

2015-02-28 16:06:12 | 日記
 逆に問えば、信頼関係のない疑り深くならざるを得ない子供たちが将来、大人たちが容認している疑り深い社会に大人として仲間入りした時にどうなるのか? 想像に難くないような気がします。若者たちも多く加わっていると見られる「おれおれ詐欺」が、年間500億円を上回る一大「産業」に成長していることや、少なくも敗戦後経験したことのないほどに盛り上がっている、ナショナリズムにかこつけた嫌韓、嫌中の動きなどは、まさに「狼が来るぞ」という疑り深くなった今日的状況が生み出し産物ともいえます。更にいえば、未婚の若者が増えているだけでなく、結婚しても子供を作らない、作れない夫婦が増えているのはその象徴的な現象かもしれません。自我の増殖や経済的理由の他に、若者たちも子供たちの世界の行く末に不安と疑いの目を向けざるを得ないのです。
 
 外国の脅威、テロ対策、集団的自衛権、自衛のために九条を「改憲」する流れが、こうした疑り深い世論を背景に、ことさら騒ぎ立てるマスコミの報道も加わり、加速化していることもまた疑問の余地のない事実のようです。しかし百歩譲って、この答えは「正論」足りうるのか。国家も民あっての国家であって、民が存在しない国家は成り立ちようがありません。子作りさえ満足にできない今日的状況の進行は、この後者への道行きであっても、ましておや「世界の中心となる名誉ある国家」への道行きでないことは明らかのように思えるのです。いくら鎧甲冑で身を整えても、満身創痍・軟弱の身には荷が重過ぎるし、産めよ増やせよ、の明治維新や昭和の初めとは状況は全く違うのです。疑心暗鬼極まれり、の感を強くします。

 「内憂外患」こもごも至るとは申しますが、今日の日本の状況は、「内憂」が「外患」の比ではないほど深刻だ、と思うのは杞憂に過ぎないのでしょうか。子供を作る、作れないといいましたが、そもそも、子供を作る前に、男女の交わり・セックスをしない、したくない若者夫婦が増えているのが少子化の実態でもあるらしいのです。それもイギリスの大手コンドーム会社の調査によれば、セックス回数は調査対象41カ国の内最下位で次に低いイギリスの半分に過ぎないとのことなのです。NHKのニュースナインでも取り上げていましたので、まんざらガセネタではないのでしょう。気がつけば日本民族「絶滅危惧種」の仲間入り、なんてならないことを願うばかりです。

 そのためにも一連の残酷な青少年の事件を通して、子供たちの世界にもっと真剣に目を向けるべきなのはもちろんの事、まずは、「信頼のおけない疑り深い」大人社会を振り返る事が何よりも強く求められているように思います。文科省や教育委員会、学校だけで解決できる問題ではないのです。問われているのは大人たちの日常性なのです。

青少年の残虐事件と平和国家日本ー内なる病(上)

2015-02-26 09:58:57 | 日記
 2月初め、日本人ジャーナリストがイスラム国ISの手によって処刑されたニュースが日本中を駆け巡りました。日本を初め世界中? でアルカイダやISのテロ行為の恐怖を取り上げているようですが、果たしてどうなのか? それこそ舌の根が乾かないうちに、その後日本国内では、小学生の男の子が殺害されたのに続き、川崎の河川敷で中学生の男子生徒が惨殺されました。わが日本国は、とりわけ子供や青少年たちにとって、大人が言うほどに、平和で安全な国なのかと自問します。
 
 先の広島の少年少女の集団による仲間の惨殺事件、佐世保の女子高生の同級生殺人事件、名古屋の女子大生の殺人事件、秋葉原の連続殺人事件、そしてあのサカキバラ事件等など、程度の問題はあれ、克明に調べ上げたら切りのないほど青少年たちの残酷な犯罪が相次いでいるのでしょうか。言葉を言い換えれば、海外で起きているテロ事件と見間違うが如くです。

 今回この問題を取り上げたのには、私的な理由もあります。かつて筆者も小学生時代、付き合いのない隣町の年長グループに、祭りの最中、神社の裏に連れて行かれ袋叩きにあったことがありました。顔はボコボコに腫れ体中負傷しましたが、医者にかかることもなく家庭内治療で事なきを得ました。そんなこともあって、その後柔道場に通うことになったのですが、いずれにしても当時の“悪ガキ”? は棒切れや刃物を使うことはもとより、殴る場所も心得ていたので、暴力とはいっても命に関わるようないじめや制裁はしませんでした。子供同士の喧嘩で殺し殺されたというような話も聞いたことがありません。戦後間もなく、ものも無く餓えた時代でしたが、子供たちにとっては今よりも確実に平和な時代であったような気がします。
 
 過剰な競争社会の下、数多の不登校児童に象徴されるように、一部とはいえ、子供たちの世界も殺伐とし、いじめや残虐行為は大人並みに映ります。かつて何度か指摘したことですが、「見知らぬ人に声を掛けられても返事をしては駄目」とか「ついて行っては駄目」といったような教育が、何ら疑問視されることなく国家的行事として行われている社会自体が問題なのです。学校によっては、子供たちに警報を鳴らす器具を常時携帯するよう指導するところもあると聞きます。熊の出る筆者の集落の子供たちは、かばんに鈴を付けていますが、幸い未だ大人用心用の警報器具を携帯するにいたってはおりません。大人が信頼できず、できないと仕向けるような社会にあって、子供同士も信頼関係を築くことはでないことでしょう。


シューベルトと康花の作品たち

2015-02-16 09:05:07 | 日記
 1月12日、松本市内に在住されているリピーターのお一人のHさんが康花美術館に来館されて、クラシックCD5枚を寄贈して下さいました。開館してほどない頃、康花の作品をご覧になって、康花を追悼するクラシック曲を編集したCDをお贈り頂きました。曲目は、生前、康花がよく聴いていたモーツアルトやブラームスの「レクイエム」、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲」などでした。絵とともに展示してあった彼女の詩作から読み取って編集して下さったのでした。
 今回、頂いた創作CDの中にもモーツアルトの作品は入っていましたが、美術館のBGMとしてはそのものずばりのムソルグスキーの「展覧会の絵」の他、シューベルトの弦楽四重奏曲「死と乙女」が選曲されていました。昨年6月の企画展のタイトルを「裸婦変容ー詩・死と乙女」としたように、康花の作品にはいつも「死」の世界が「生」とともに描かれています。現在開催中(2月は休館)の康花版画展も、新聞広告(信濃毎日新聞)には「若き感性が描く死生観」という三文字を入れています。まさに康花の作品をよく理解されたうえで、Hさんは選曲されたのだと改めて感じ入っておりました。

 康花が17才の時に書いた詩の中に「ブレヒト」と題した作品があります。ブレヒトの言葉を引用しながら「生」と「死」について書いた詩です。ブレヒトは『三文オペラ』『ガリレイの生涯』に代表されるドイツの思想家・劇作家であると同時に詩人です。そのブレヒトとの交流のあった友人に、同じドイツの哲学者であり音楽家であったアドルノがいました。恐らく、康花は直接にはアドルノに触れることはなかったと思いますが、彼女の父親であった僕は、44,5年前、アドルノの作品『楽興の時』を読んでいました。この著作の中に「シューベルト」について書かれた論文のあることを思い出したのです。アドルノはシューベルトの音楽を哲学しています。

「シューベルトの音楽を前に、涙はこころに相談もなく、目に溢れでる。比喩でなく、まことの涙がふと私たちのうちに込み上げてくるのだ。わたしたちは、訳もわからぬままに泣く。しかし、わたしたちが泣くのは、わたしたち自身この音楽の約束するようなものになりえていないからであり、この音楽がひたすらそのようなものであることによって、わたしたちもいつかそれにあやかれることを請け合ってくれている、名づけようもない幸福のためである。わたしたちはこの音楽を解読することができない。しかし、涙にかきくれたくもり目のまえに、それは究極の和解の符丁をつきつけているのである。」(三光長治・川村二郎訳)

 Hさん、改めてこの場を借りて心より御礼申し上げます。有難うございました。