農文館2

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「戦場と人間」展開催

2014-07-20 10:39:41 | 日記
 康花美術館では7月5日から「戦場と人間」と題して特別展を開いています。正確には「幻想か現実化ー食と戦場と人間」と言うのが正式なタイトルです。この特別展を企画したのは、敗戦記念日を控え、何よりも作者が戦争に関して思い残した言葉や作品があったことによります。作者は15歳歳の時に次のような文章を残しています。


* 戦争が起きるかもしれない

  戦争が起きるかもしれない。
  物心ついたときから父や母に戦争の恐ろしさ愚かしさを聞いて育ったせいか、生まれてこの十何年間、私は戦争というものを非常に恐れて  暮らしてきた。暮らしてきた、というと常におびえて、びくびくしていたようだが、深く追求していけば、自分の国だけは何とかなるだろ  うという安易な考えもあったのだ。
  けれども、今度ばかりは、私が知らなかっただけで、過去にも幾度か危機はあったのかもしれないが、最悪の場合、本当に戦争になるかも  しれない。(略)
 
  私の夢は当たることが多い。
  戦争で男たちが軍服姿で大勢船に乗り
  込み、大勢の人々が歓喜の声を上げてそれを見送っている姿の夢を見た。
  街が焼かれ火に包まれる道なき道を、恐怖と苦しみ無我夢中で逃げている自分の夢を見た。
  目の前で、すすだらけの人間とも思えない兵隊に、機関銃で撃ち殺される人々の夢を見た。 
  ああ、もしこの悪夢が現実となったら、私はどうやってこの先歩いていけばいいのだろう。
  (略)
  ああ けれどどうか できることなら
  私の数々の罪を許して下さい
  お願いだから戦争はやめて下さい
                                               (一九九四年六月一一日)

 時代は湾岸戦争の頃でした。それから10年余りしてイラク戦争が起こりました。この間作者は、東京大空襲を経験した父親に連れられて、祖母や伯母、父たちが逃避行した足跡をたどる経験をしています。海底あるいは原野にさらされた髑髏の先に小さく閃いている日本の旗を描いた「歴史」、女性の乳房と朽ち行く男根の柱を描いた「戦場のエロス」、そして月明かりに映し出された、死屍累々の髑髏と武器の山を描いた「悪夢」などは、正に戦争の悪夢に触発された作品と言えるのでしょう。もちろん戦争だけに向き合って制作したのではないのでしょうが、「私は形」「双眼」「ブリキの太鼓」に表出された若き日の作者の目が、戦争の悪夢を射ていることもまた確かです。

 以上の作品の他、戦争に関連して描かれたと思われる「食4」「白い命」「ゴジラ」などを展示しましたが、開催してから数日後、作者自身が2005年にパソコンに入力した作品の写真集が出てきたのです。その中に30枚近く戦場を描いたと思われるデッサンがありました。その一部は観たことがありましたが、まとまって目にしたのは初めてでした。上記した「悪夢」はその成果の一つで、恐らく、作者はこれらのデッサンをもとにいくつかの完成作品を制作するつもりであったのだと推測されます。ゴヤが最晩年、誰にも見せることなく連作「黒い絵」を描き切ったことが思い起こされ、一層に残念な思いが募ります。戦場の大地にごろんと転がった大きな人間の頭部一つ、手前に突き刺さった銃剣、その間を蟻を思わせるような小人たちが列をなして歩いている風景、是非とも大作として完成させてほしかったデッサンの一つです。とりあえず、急きょその中の23枚をプリントし、2つの額に入れて追加展示することにしました。「戦場と人間」と題したのは、これらのデッサンによるものです。

 是非とも一度ご来館下さいますよう、お待ちしております。  

『陽気なドン・カミロ』 どんなに仲が悪くても 

2014-07-07 09:31:36 | 日記
 嫌韓、嫌中、嫌北朝とサッカー・ナショナリズムがドッキングし、庶民大衆の高揚感が満ちる中、いつの間にか集団的自衛権は閣議で決定されてしまいました。昨6日日曜日の昼時、テレビをつけると、黒金某という漫画家が、かなりの上から目線で隣国がいかに日本に比べて劣っているかを論評していました。前にも耳にしましたが、この手の方々、振り込め詐欺、脱法ドラッグ、いじめ、非正規雇用、ブラック企業、自殺、国の財政破たん、地方の崩壊、等々日本の実情をどれほど知ってのことなのでしょう? 他人をあげつらう前にわが身を振り返れば、とつい言いたくもなります。以下、久方ぶりに『むすび』に連載中の一編、映画『陽気なドンカミロ』を転載して、ひとまず溜飲を下げることにします。   
                                 
『陽気なドンカミロ』

 国同士がお互いに敵対していても、人は国境を越えて友情や愛を育むことはできます。かつて取り上げた名作『大いなる幻影』もそんな内容の一本でした。今回ご紹介する『陽気なドン・カミロ』〈1951年〉は、人間同士の争いごとを描いている点では同じなのですが、前作の高邁な作風とは打って変わって、飾り気のない人間臭さがぷんぷんとしてくる作品です。しかも主人公は敬虔であるべき神父と、片や永遠の理想を掲げる共産主義者。ところが、『わが谷は緑なりき』の文字通り誠実な神父、かつてカトリック教会からクレームのついた『天使と悪魔』に登場してくる悪徳的?神父とも違い、悪たれは常套句、騒ぎは起こす、喧嘩はするわ、の型破りの神父であるところが味噌なのです。
 
 その神父役ドン・カミロを演ずるのが、当時フランスの映画界をジャンギャバンととともに二分するほどの人気のあったフェルナンデルでした。前者は二枚目として、後者は三枚目として、シリアスな役や悪役もこなした伊藤雄之助とは違い、同じ馬面(失礼)のフェルナンデルは喜劇を売りとしていました。つまりキリスト教と共産主義の対立を暗に描きながらも、タイトルから想像できるように、バルザック流の辛い風刺の向こうを張った、心温まる「人間喜劇」なのです。ちなみに監督が『望郷』でジャンギャバンを大スターにしたジュリアン・デュビビエであったのも注目されるところでした。

 物語の舞台はイタリアの田舎町。竹馬の友ペポネ(ジーノ・チェルヴィ)は、天敵ともいうべき共産党の地区書記長。そのペポネが新市長に選出され、面白くないのは神父のドン・カミロ。そこで町の広場で行われていた市長演説を、教会の鐘を打ち鳴らして妨害することから始まって、ペポネの新施設(人民の家)建設への嫌がらせなど、ことごとくドン・カミロはペポネと対立し喧嘩するばかり。挙句の果てにはペポネの仲間たちとも大喧嘩して大司教からお目玉を食らうのですが、親の反対から心中を図った若き恋人同士を、犬猿の二人が協力して助けだすなど、実はお互いに温かい人情味の持ち主であることは了解済み。ところがどうしたことか、若き恋人同士が結婚式を挙げた夜、ドン・カミロは大暴れ、ついに大司教から教区転任を命ぜられることになります。町を去る日、駅には見送りに来ているものは誰もなし。悄然と列車に乗り込んだドン・カミロ、ところが次の駅で教会派の仲間が大挙して彼を待っていた。そして次の駅ではなんと、ペポネの仲間たちまでもが。どうして?
 この作品は東西冷戦の最中に上映されたのですが、今日のウクライナやタイ、そして日中韓越国などとのいがみ合いの有様を見ていると、半世紀以上前のこの作品がまだ息づいていたことに気づかされます。せめても「政治家」には利用されないようにしたいものです。