先週、身体に“爆弾”を抱える友人が相次いで美術館に再来館してくれました。一人は長野県の東御から、もう一人は東京からです。そしてもう一人は初めてですが麻績村から。
東御の友人は体が不自由なため夫人と一緒でした。と言うより、正しくは身体が不自由になる以前からも、お二人はいつも一緒であったような気がしますが。最初に彼の歩き方の不自然さを感じたのは広島で学会が開かれた折のことで、10年?ほど前にもなるでしょうか。原因はパーキンソン病でした。その後病は徐々に進行し歩くのも一層不自由になってきましたが、教壇には立ち続け、その間ヨーロッパにも度々出かけるとともに、わが麻績の自宅にもご夫婦で訪ねてきてくれていました。2010年5月に東京で開いた「康花展」に東御から駆けつけてくれ時は、観覧は夫人つきの車椅子によるものでした。その二年後、美術館にお越しいただいた時は、夫人の支えを必要としたものの、車椅子はありませんでした。そして今回、夫人の運転する車から降りた彼は、杖を片手にすたすたと階段を上り、館内の2階への階段も、手すりを持ちながらも一人で上がったのです。それは目を疑うばかりの光景でした。これまでのリハビリ、温泉療法、食事療法等々、様々なことをしながらの歳月に加えて、新たに取り入れたダンスの効果がでているのではないか、と言うことのようです。小生は、常にお二人の前向きな姿勢と進取の気性に富んだ夫人なしにはあり得なかったことだと思っています。そんな彼らにお会いする度に励まされているですが、この度ばかりは同じ病と闘っておられる方々に知ってもらいたい、という思いの方が募っています。
そして東京からのIさん。同じように長年来、肺に腫瘍を抱えながらの生活を送っています。しかも後期高齢者でありながらも、日本を代表する反原発の科学者として東奔西走、今なお一線に立って活動しています。たまたま友人の一人が先月肺がんの手術をしたばかりでもあったので、Iさんから来館の電話があった際、無理はされてはと思い婉曲にお断りしたのですが、テーマがテーマ(「戦争を忘れない」)であっただけに来館されたのです。実はIさんの病を支えているのも夫人です。漢方、食事療法など西洋医学だけに頼らないで病に向き合っているのは東御の友人と同じで、娘康花が存命中、健康食品である酵素を奥さんからお送り頂いたのを昨日のことのように思い出します。聞けば、最近の検査で腫瘍が少し大きくなっているとのこと、何度かお会いし事情を聞いているだけに、夫人の心労が思い浮かぶようで、言葉に窮するばかりでした。
もうお一方は、美術館が設立されてからこの三年間、聖高原駅までのバス通勤で知り合いになった僕と同じ年生まれの女性のHさんです。十年ほど前、夫の実家の隣村麻績に、定年退職とともにUターンしてきたのですが、3年前夫が病に倒れて入院、それ以来、Hさんは夫の入院先の病院通い。雨の日も風の日も雪の日も。そんなHさんが美術館に来られたのは、長崎で原爆の被害を受けた身内の方がおられたということもあって、今回の「戦争を忘れない」展に興味を惹かれたからのようでした。彼女は、来て良かった、又伺いたいと、嬉しい言葉を残して帰りましたが、それ以上に心を打ったのは、ほとんど寝たきり状態になった夫の見舞いを欠かさずに通い続けている理由の一つとして、満足に会話のでき亡くなった夫が、「顔を合わせると笑みを浮かべるので」と、恥ずかしそうに話してくれたことでした。
なぜか三人の婦人たち、そして夫たちもそれぞれ多少「戦争を知っている」世代の人達です。
東御の友人は体が不自由なため夫人と一緒でした。と言うより、正しくは身体が不自由になる以前からも、お二人はいつも一緒であったような気がしますが。最初に彼の歩き方の不自然さを感じたのは広島で学会が開かれた折のことで、10年?ほど前にもなるでしょうか。原因はパーキンソン病でした。その後病は徐々に進行し歩くのも一層不自由になってきましたが、教壇には立ち続け、その間ヨーロッパにも度々出かけるとともに、わが麻績の自宅にもご夫婦で訪ねてきてくれていました。2010年5月に東京で開いた「康花展」に東御から駆けつけてくれ時は、観覧は夫人つきの車椅子によるものでした。その二年後、美術館にお越しいただいた時は、夫人の支えを必要としたものの、車椅子はありませんでした。そして今回、夫人の運転する車から降りた彼は、杖を片手にすたすたと階段を上り、館内の2階への階段も、手すりを持ちながらも一人で上がったのです。それは目を疑うばかりの光景でした。これまでのリハビリ、温泉療法、食事療法等々、様々なことをしながらの歳月に加えて、新たに取り入れたダンスの効果がでているのではないか、と言うことのようです。小生は、常にお二人の前向きな姿勢と進取の気性に富んだ夫人なしにはあり得なかったことだと思っています。そんな彼らにお会いする度に励まされているですが、この度ばかりは同じ病と闘っておられる方々に知ってもらいたい、という思いの方が募っています。
そして東京からのIさん。同じように長年来、肺に腫瘍を抱えながらの生活を送っています。しかも後期高齢者でありながらも、日本を代表する反原発の科学者として東奔西走、今なお一線に立って活動しています。たまたま友人の一人が先月肺がんの手術をしたばかりでもあったので、Iさんから来館の電話があった際、無理はされてはと思い婉曲にお断りしたのですが、テーマがテーマ(「戦争を忘れない」)であっただけに来館されたのです。実はIさんの病を支えているのも夫人です。漢方、食事療法など西洋医学だけに頼らないで病に向き合っているのは東御の友人と同じで、娘康花が存命中、健康食品である酵素を奥さんからお送り頂いたのを昨日のことのように思い出します。聞けば、最近の検査で腫瘍が少し大きくなっているとのこと、何度かお会いし事情を聞いているだけに、夫人の心労が思い浮かぶようで、言葉に窮するばかりでした。
もうお一方は、美術館が設立されてからこの三年間、聖高原駅までのバス通勤で知り合いになった僕と同じ年生まれの女性のHさんです。十年ほど前、夫の実家の隣村麻績に、定年退職とともにUターンしてきたのですが、3年前夫が病に倒れて入院、それ以来、Hさんは夫の入院先の病院通い。雨の日も風の日も雪の日も。そんなHさんが美術館に来られたのは、長崎で原爆の被害を受けた身内の方がおられたということもあって、今回の「戦争を忘れない」展に興味を惹かれたからのようでした。彼女は、来て良かった、又伺いたいと、嬉しい言葉を残して帰りましたが、それ以上に心を打ったのは、ほとんど寝たきり状態になった夫の見舞いを欠かさずに通い続けている理由の一つとして、満足に会話のでき亡くなった夫が、「顔を合わせると笑みを浮かべるので」と、恥ずかしそうに話してくれたことでした。
なぜか三人の婦人たち、そして夫たちもそれぞれ多少「戦争を知っている」世代の人達です。