農文館2

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マクロを哲学する―美学をも追究(14)

2015-05-16 08:45:44 | 日記
 そしてさらにマクロの奥の深さは、毎月の『むすび』に掲載される料理の数々の写真からも窺われます。「人はパンのみで生きるにあらず」、イタリア映画『パンと恋と夢』では、ジャムもバターもハムも挟んでいないパンを齧っていた爺さんは、「夢を挟んでいる」という名言を口にしていましたが、マクロは単に栄養価が高い、体に良いという他に、四季という日本の自然の美しさから育まれた和食独特の「美学」をも追究している点でも優れた学問なのです。一言で言えば、食べ物に心が詰まっているということです。
 
 ヨーロッパの哲学者を何人か紹介してきましたが、社会主義経済の優位性を説いたマルクスが最も影響を受けたドイツの哲学者ヘーゲル、近現代社会の基盤となっている自由民権を説いたフランスの思想家ジャンジャック・ルソーやボォルテール、さらにわたしたちと同時代人でもあり、東洋哲学にも造詣の深かったキルケゴールや、ベンヤミン、アドルノなどの哲学者も、芸術、美学が不可避であることを多く言及しています。ちなみに人間は「土の化け物」思想は東洋哲学の「輪廻転生」に、そしてあのニーチェの「永劫回帰」にも連結しています。マクロ料理の美学も又この延長線にあったことを考えれば、マクロがフランスやドイツ、イタリアなどに広がりを見せているのも肯けます。

 美しい心の詰まったお袋の料理を食べた者にとって、親不孝は無縁の事と言ったら言い過ぎでしょうか? 広島の少年少女の集団による仲間の惨殺事件、佐世保の女子高生の同級生殺人事件、名古屋の女子大生の殺人事件、秋葉原の連続殺人事件、そしてあのサカキバラ事件等など相次ぐ青少年たちの残酷な犯罪=今話題のテロ行為も、死刑となった永山則夫も、何も難しい『資本論』など読まなくとも、お袋のマクロの料理を口にしていれば起きなかった事件のように思えるのです。
 「資本の文明化」に誘引されて、主婦(夫)の社会進出の名の下に家庭が空洞化してから久しくなります。家庭料理は加工食品、コンビニ、ファーストフードに取って代わられ、一番大切な成長期の子供に必要なお袋の温もりが遠くになっていることは否定しようもありません。昨年3月、この場で「時代が要請するマクロビオティック」と題してお話した中心テーマは、予備軍を含め800万人にも上るといわれる「認知症」についてでした。その誘引の一つとしてここでも家庭の空洞化を挙げました。今日の経済社会が家庭の空洞化によって、子供や老人、弱い者たちにしわ寄せが行っているという視点に立てば、マクロは食生活と家庭団欒を通じて少なくともそれを和らげ、取り戻そうとする哲学を持っていることは確かです。

 マクロは「心身一如」、精神的にも肉体的にも、壊れかかった今の日本社会に必要とされる処方箋でもあるばかりか、市場経済至上主義では実現できない格差社会を解決し、真の意味での豊かで品格のある日本社会構築への道しるべでもあるのです。そしてなによりも現代社会における労働が、ストレスが多く人間を疎外しやすいのに対し、マクロの料理は、作り手にとって芸術家並みの喜びの得られるやりがいのある物作りの仕事なのです。
 

マクロを哲学する(13)ー「少欲知足」

2015-05-03 10:03:11 | 日記
 実はドイツの哲学者よりも七、八百年も前、中世の仏教界のみならず日本の芸術・文化に多大な影響を及ぼした源信は、「足ることを知らば貧といえども富と名づくべし、財ありとも欲多ければこれを貧と名づく」と言っています。

 ここで言う「贅沢」も「多欲」ももとと言えば「自我」のなせる業ですが、インドの詩人タゴールは、「人間の意識の範囲が自我のすぐ近くにあるものに限定される限り、、、、精神は常に飢餓に瀕しているので、健全な力を示す代わりに刺激ばかりを求めるようになる」と現代社会を鋭く射ていますが、ヤスパースはこの言葉を引き受けるかのように「我意を貫こうとする粗暴な態度は反転して絶望となる」と、行過ぎた「自我」の末路を厳しく分析しています。

 カントやヤスパース、それにタゴールも源信の直弟子ではないかと錯覚しそうなまでに優れた思想家・宗教家が日本にもいたことを再認識して欲しいものです。その最たる実践化の一人が皆さんもよく知っておられる、江戸時代の良寛さんです。「少欲知足」「知行合一」、彼の日常性とそこから生み出された詩と和歌は、「腹八分目」、いや「腹七分目」の精神を表現したものに他なりません。「腹八分目」は何も食事の食べる量の多い少ないではなく、正にこうした日本や世界の哲人たちの哲学思想を受け継いできた含蓄ある言葉なのです。

マクロを哲学する(12)

2015-05-01 11:21:03 | 日記
 今日の経済システムを、イソップ物語の「キリギリス型」、「花見酒型」といいました。学問的に言えば、「消費者は王様」という売り手のキャッチフレーズに踊らされた「大量消費型」経済システムなのですが、そもそも「消費者」などという人間性を疎外したような経済用語でひと括りされても、少しの違和感を持たなくなくてしまった僕たちが作り出したシステムだともいえます。その後環境問題の深刻化もあって多少の見直しも行われてきていますが、リサイクルの名の下に依然として必要以上の大量消費が続いていることを否定しようがありません。その典型が食糧です。自給率が今や40%を切ったにも拘らず(穀物自給率は28%)、日本の食糧廃棄は年間およそ2000万トンこのうちの半分が家庭からのものです。金額にすると11兆円、年間の農業生産総額に匹敵します。さらにこの残飯処理にかかる費用が2兆円、世界一の大量消費国アメリカをも上回る量です。これを浪費といわずして何といったらよいのでしょう。

 冒頭に紹介したカント言います。「贅沢は人を貧にする浪費である」と。贅沢は豊かさの基準ではなく、人を貧しくする浪費に過ぎないと言っているのです。そしてこの精神を引き継いだ同じドイツの哲学者ヤスパースは「現在を浪費するならば、私たちは存在をしなう」とさらに厳しくドイツ人を戒めています。現在のヨーロッパも、大量消費生活から全く免れているとは言えませんが、10年ほど前ヨーロッパに遊学中、見聞きしたことで記憶に残っていることがあります。英国に留学していた日本の研究者が、朝食の目玉焼きをナイフとフォークで食べた後、散らばった卵の黄味をそのままにしていたところ、下宿のおばさんは「どうして残すのか」と注意したというのです。「パンでさらいなさい」ということだったのです。イタリアでのマクロ体験、最高指導者のMさんは、僕との会食で、終いにはいつもお皿を自分の舌でなめるが常でした。そのイタリアでおばあちゃんの使っていた枕カバーをお孫さんが使っていました。ドイツでは男の子が靴や時計は、おじいちゃんから譲り受けるのは当たり前だとも聞きました。