農文館2

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安保関連法案通過の功労賞?

2015-09-25 09:07:22 | 日記
 自民党のなんとか小委員会が、NHK受信料の義務化を提言していると聞きます。やはり、と納得しました。
 安保関連法案が先の参議院で議決できた最大の功労者が、NHKであったことは周知の通り? ですが、でもあまりに正直な自民党の対応にいささか驚いてもいます。恐らく中立と思っている当のNHKも赤面していることでしょう。

 郵政民営化での小泉ブームしかり、決められない政治での鳩山いじめ=辺野古基地移転しかり、そして今回の安保関連法案成立も、「中国脅威論」をことさら取り上げ多角的に抑止力世論を誘導してきたのが、サンケイ系や読売系、いや朝日、毎日系以上に公共放送であるNHKでした。なぜなら右や左とレッテルを張りたがる人たちにとって、天下のNHKが繰り返してきた「決められる政治」は色のない安心できる判断材料になっていたからです。かつて同じように「決められる政治」に加担していた、左のレッテルを貼られている朝日や毎日系が、今回反対の立場から旗幟こそ鮮明にしましたが、十分な説得力に欠けていたのは否めません。その点、中道だと思い込んでいる人たちにとって、NHKは終始一貫していたと言うことになるのでしょう。
 
 「決められる政治」をモットーとする安倍さん、いたく感謝していたことでしょう。そこでまずは受信料の義務化(提言)で功労に報いることにしたのかもしれません。とは言え、これから憲法違反訴訟なども控え喜んでばかりはいられないのも一方の事実。お次は安倍さん、功労賞を中身のあるものにするためにも、来る内閣改造でマスコミの監督官庁である総務大臣の人選に深謀遠慮するのは必定です。小生が講義でよく引用した「眼光紙背に徹する」とは、こんな時に使う言葉だと思いますが、元学生の皆さんにとっては、言うまでもないことではありますね。

戦争への道ー問われているのは日本人の知性

2015-09-18 10:19:14 | 日記
 以下は日本有機農業研究会の『土と健康』2015年8・9月合併号に掲載された一文です。



戦争への道―問われているのは日本人の知性と歴史認識
                              須藤 正親

 「漸く暑い夏が今年もやってきた。とかく過去のことを忘れがちな日本人も、年に一度この時期に戦争のことを回顧する。だが戦争を知らない世代の台頭とともに、その事実すらもが今消え去ろうとしている。
先頃、広島と長崎の原爆投下の悲惨さを、アメリカのみならず世界の人々に知ってもらおうとドキュメンタリー『ヒロシマ・ナガサキ』を制作したアメリカのスティーブン・オカザキ監督(日系三世)が、広島と長崎で、「8月6日」、「8月9日」が「何の日」か、と尋ねたところ、若い世代の3分の1以上の日本人が答えられなかったことに絶句していた。
 原爆が投下されてから62年、唯一の被爆国として核の廃絶を世界に訴えてきたが、現実は、その反対に核保有国は拡散するばかりである。日本の核廃絶運動以上に、厳しい国際情勢が各国に核保有に走らせてはいるのだろうが、日本の運動自体に問題があったことは否めない。唯一の被爆国でありながら、その実験をやった当のアメリカの核の傘に保護されながらの訴えに、説得力は乏しい、と指摘されても反論が難しい。東京から、広島や長崎は遠く、国民運動として政治を動かすまでには至らなかったのである。ソ連軍の参戦下、旧満州の開拓民を別とすれば、米軍上陸によって、多くの民間人が犠牲となった沖縄に、戦後62年、米軍基地の存在を放置してきたことが重なる。」

 上記の一文は、「歴史認識雑感―被害と加害と、フォスターとベンヤミンと」と題し、2007年9月、中国の瀋陽師範大學で開催された国際シンポジウムで、私が講演した時の前言葉です(『日中口述歴史文化研究会会報』2007年第3号所収)。それから8年、「知らない」「知ろうとしない」状況は更に進行しています。しかもこの間に原子力発電所が爆発したにも拘らず、その再稼動とともに軍拡を当たり前の如く政治家は誘導しようとしています。その背景には、戦争を「知らない」政治家ばかりでなく、次代を担う若者たちの間で常態化している「知らない」ことが彼らの「偏差値」を後押しているからなのでしょう。

 E.M.フォスター(1879-1970年)とヴァルター・ベンヤミン(1892-1940年)を取り上げたのは、日本と英独との知性と歴史認識の比較においてでした。日本は、歴史認識を踏まえ植民地インドを描いたフォスターの『インドへの道』、ビルマ(ミャンマー)を描いたジョージ・オーエル(1903-1950年)の『象を撃つ』に敵うだけの文学を持たなかっただけでなく、「世界は本質的に過去的であり、現在ある世界は単に現在的であるのではなく、過去的に現存在する」、と見るベンヤミンの『歴史哲学テーゼ』の知性から遥か彼方にある存在でした。「過去に目を閉ざす者は、再びその過ちを繰り返す。」と語った故ワイゼッカー大統領の余りに有名な言葉は、ベンヤミンを通じて、ドイツ的知性の脊柱ともなっているヘーゲル『歴史哲学』(1770-1831年)に繋がるものだったのです。
 
 翻って日本はどうか。小中高等学校は言うに及ばず、大学までもが「生き残り」をかけた独立行政法人化という名の下に株式会社化し、学問の基本とも言うべき思想哲学が更に軽んじられてから久しいのは周知の通り。60年代から70年代にかけて、日本の政治家や会社が「トランジスターラジオのセールスマン」とか「エコノミック・アニマル」と外国から揶揄されていた頃の大学がそれでも懐かしくすら覚えます。最近の国立大學の文系廃止の動きも、こうした文脈に沿えば唐突に持ちだされたのでないことは自明です。もとよりTPPもしかりです。東京から見た沖縄や原発が遠いよそ事であるように、中山間地を中心とした荒廃する僻地の実態に目を閉ざす「東京」世論が、TPP交渉から脱退を促すとは到底考えられません。「持てる者」と「持たざる者」との間に横たわった溝を、経済と言う名の札束で埋め合わすことには怠りなかったとしても、本来的に持っていたかどうかはさて置くとして、知性がなおざりにしてきた歴史的結果でもあるのでしょう。集団的自衛権の発動が、ホルムズ海峡の機雷除去による経済権益の保護にあるという政治家のゆるぎない主張は、今もなお「成長神話」に思いを寄せる日本の内実を端的に表しています。
 
 とまれ、過剰な経済権益の保護による戦争への道が、わたしたちの生活に安穏と平和をもたらすものでないことは確かです。イギリス人をヘーゲルの門人と呼び、アインシュタインとともに核と戦争の廃絶を訴えたイギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、いわばこうした「集団的精神異常」の発芽を抑えるために、次ぎのように言っています。
「宇宙を敵対する二陣営―味方と敵、助けるものと敵対するもの、善と悪―に分ったりせず、全体を公平に観察することである。知識の獲得はすべて、自己の拡大であるが、この拡大は、それを直接に求めないときにもっともよく達成される。知識は、自己と自己ならざるものとの統合の一形式なのである。」(『哲学の諸問題』より)
 康花美術館は、そんなことを考え対話する空間です。特別企画「戦争を忘れない」展は年内中開催しています。松本にお越しの折にはぜひお立ち寄りください。(8月6日記)

M.M様ー「康花と私の弁明、そして原発」

2015-09-10 13:08:39 | 日記
拝復

 こんなにも康花のことを今なお想い愛おしんでくれている貴方様が、重い病に罹っていたことも知らず、そして退院されてからお体が自由にならないことをお聞きしながら、直ぐにお訪ねもできずどうぞお許し下さい。
 
 お手紙にもありましたように、康花が生前、退院後麻績村で過ごした最後の年、貴方様は福島から康花を見舞うために娘さんのおられた小諸に来られ、そこからお電話を下さいました、「これから伺いたい」と。7年前のことです。遠いところから康花のお見舞いのために近くまで来ておられるにも拘わらず、私は無情にもお断りを致しました。 

 「行って、どんなに細った体を抱いてやりたかった、あゝあの時の想い 切ないやるせない気持ち 誰か知ってくれるでしょうか 悲しかった 涙が頬を流れたけれど せめて康花ちゃんの回復を祈ろうと 祈りに祈りました」と、回想なさっておりますが、彼女の体調が最悪であったことがその理由であったとはいえ、このお手紙を拝読しながら、今さらながらその時のことを想い起こし申し訳ない気持ちで一杯になっています。東京の病院に入院中、同じように遠くからお見舞いに来て下さった方に面会を断ることはありました。貴方様の場合は体調の他にそれとは違った思いが彼女と私の胸の中に去来していたような気がしています。言い訳になりますが少しだけお聞きください。

 お断りしたその時よりさらに7年前、康花と私が東京から麻績村に移住し、農業を始めるにあたって土いじりもしたことのない私たち父子に、手とり足とりご指導下さったのは貴方様ご夫妻でした。しかも私たちの僻地住まいと同じ、遠く福島の僻地からお越しいただいてのことでした。最寄りの磐越東線・船引駅まで車でおよそ30分、船引からは郡山、大宮、長野を経て聖高原までがおよそ4時間40分、そして我が家までが20分、ざっと見ても6時間は優に超える長旅をされてのことでした。当時貴方様は70も半ば過ぎ、ご主人は80前後だったように思います。しかもお越しいただいたのは一、二度のことではありませんでした。米作り、小麦作り、エゴマ作り、そして大根、人参、大豆など野菜の数々、就農1年生に過ぎない私たちが、あれほど全て順調に収穫にまでこぎつけることが出来たのはひとえに、いやひとえにもふたえにも貴方様たちのお蔭でした。今、私も疲れがなかなかとれないその年頃に近づき、貴方様ご夫婦がどれほどに私どもに思いを寄せて頂いていたかを改めて身に沁みて感じております。
 
 お手紙の中で、康花が生き生きと農作業をしている姿をお書きになっています。康花は貴方様のお見舞いをお断りした時、臥せりながらご指導していただいていたその当時のことをきっと思い出していたに違いありません。しかし彼女にとって、その善き思い出もその先については口に触れられない、口にはできない理由がありました。全く受け入れる様子のない父親とは違い、彼女は自分の余命が少ないことを知っていました。自分はこれから先二度と農作業が出来るようになることはないだろうし、それはとりもなおさず、お約束していたあのことを破ることになる。貴方様が文章を、康花が挿絵を描くという、二人が念願していた童話の共同出版が反故になることを、彼女は自分に言い聞かせ口封じしていたのだ、とも思います。そのような姿、衰弱した身体はもとより心の中も貴方様にはお見せし悲しまさせたくなかった。
 康花が死の間際まで詩を綴っていたことを知ったのは彼女の死後のことですが、貴方様は彼女にとって、母亡き後の母のようであって母でない人、祖母のようであって祖母でない人、おそらく農業の先生であると同時に金子みすずのような方、尊敬して止まない人であったのだと思います。
 それから幾日経ってのことだったでしょうか、貴方様が男勝りと感心されお褒め下さっていた電動式機械での草刈りを、その日は体調が良かったのか彼女は晴れ晴れとした様子で動かしていたことが昨日のことのように思い浮かびます。それが麻績村で過ごした彼女の最後の野良仕事でした。
 
 康花が亡くなってから貴方様とお会いしたのは5年前の東京で開いた個展の会場でした。福島の磐越東線から乗り継ぎをしながらのことでした。それから再びお会いしたのは、あの福島の原発が爆発し、疎開を余儀なくされた山形の高畠に今度は私がお見舞い訪れた時のことです。かれこれ4年になりますが、この間貴方様は、高畠を離れ、そして今はご子息の疎開先の三重県に在住されています。しかしそこでの生活は、何よりも愛し大事にしてきた土との関わりを断たれたものでした。福島原発の近くに住んでいた身近な知人たちの中で、農業に勤しんでいた彼らの高齢の父母たちが、農業を奪われ疎開先で気力を失い病がちになっていることはよく耳にしています。貴方様が今のところで二度にわたり大きな病をされたのも、原発によって住み慣れた、それこそ貴方様の歴史と汗の詰まった大地から全く縁もゆかりもない所に放り出されてしまったことが主な原因であることは明らかなように思います。でもどうか再びお力をお出しになって下さい。土とは離れても、貴方様には詩を創作するという仕事があります。私が貴方様の詩を金子みすずとともに大学の講義で紹介させていただいたのはそれほど遠いことではありません。お手紙には、康花の知られざる一面―農的世界?―を詩にしたいとも書いておられます。お体が不自由になったとはいえ、今回のお手紙はこれまでに頂いたお手紙と何ら筆力に変わりはありません。康花との共同出版こそ実現しませんでしたが、是非とも次の詩集をお出しになるよう、創作活動の再開を心よりお祈りしております。それはこの6年有余、xxxxxxxxxxxに彷徨い続けている貴方様の友人である私の切なる願いでもあります。

 末筆ながら、康花のお見舞いをお断りしたこと、重ねてお詫び致します。
 不順な日が続くこの頃、くれぐれもご自愛下さいますよう。
                                  2015年9月9日 麻績村にて
                                         

 

 

「戦争を忘れない」との「出会い」と「自虐史観」

2015-09-01 12:35:04 | 日記
 康花美術館のホームページに掲載した「戦争を忘れないー中学生の感想」をお読み頂いたでしょうか。今回、感想を寄せられた中学生は、松本市内のM中学校の生徒さんたちで、夏休みの課題として来館されました。M中学校生徒の来館は二年前に続いて2度目の事です。たまたま今回は戦後70年ということで、生徒さんたちも感ずるところも多く、別に書かなくてもいい感想を積極的に残してくれたということなのでしょう。美術館を訪れるという課題がなければ日頃足を向けたこともないであろう美術館に来ることもなく、作者や作品との出会いもなければ感想を書くこともなかったに違いありません。作品との対話を目的の一つとしている康花美術館としては改めてわが意を得たりの感を強くしましたが、それ以上に長年の教師生活の中で「出会い」の大切さを説いてきた者にとって、彼らの可能性を引き出すお手伝いが多少なりとも出来たように思えたのが何より嬉しいことでした。それは暑い一夏、日々経営・企画で頭を悩ませている美術館への爽やかな一陣の涼風となりました。
 
 「出会い」の大切さを説くのは、あくまでも何かを学ぼうとする学徒へのメッセージであって、それ以上でもそれ以下でもありませんが、顧みて、今日ある我が身に決定的な影響を及ぼしたのが中学生時代の出会いであったことが思い出されたからです。それはT先生であり、Y先生、S先生であり、その先生方の一言二言の中からさらに出会うこととなった作家や作品たちでした。そのうちのニ、三は今もなお強烈な映像となって心に鮮明に焼き付いています。下村湖人の『次郎物語』、ラブレーの『ガルガンチュア』、ロバート・オーエンの『自叙伝』などでした。そしてそれがいつの間にか美術館や博物館通いにも繋がリ、十代後半、二十代へと年かさが増すに連れて出会いの間口は広がり、自分なりの世界観を形成していったような気がしています。
 
 しかし出会いといっても、とかく人は善き出会いがあってもそれに気がつかずに通り過ぎてしまいがちです。特にそれが善き出会いであっても、自分に厳しく当たる人や厳しい現実に直面すると遠ざかりがちになるのは世の常です。古代から、「巧言令色少なし仁」といわれる所以す。省みれば小生自身、そうした善き出会いをどれほど見過ごし遠ざけてしまったか、反省することしきりでもあります。安倍さんの「70年談話」を引き合いに出すまでもなく、時代は「自虐史観」と言う名を借りて、知の根源である自らを省みる「自省」することを恥とする風潮が蔓延しています。このブログを読んでくれている元学生諸君、「巧言令色」に出会うことは多くても、善き出会いには出会っていないのではないかと憂えています。先日、20代の頃同じ釜の飯を食べた元同僚・友人との話で、反旗を翻すほど厳しかった勤務先上司のことが話題になりましたが、お互いにその上司に対し感謝の念で一致したのは、時代を加味するならば、偶然ではなかったように思います。彼との付き合いも出会いから半世紀が経っています。
 
 一人の美術のA先生の紹介で訪れた、たった一日の美術館での作者や作品との出会いから、より若き彼ら中学生たちはこれから先どれほどの善き出会いを持つことになるのでしょう。ある程度自己確立しつつある大学生や社会人よりチャンスの多いことは疑問の余地のないことです。そして少なくとも彼らの感想文を見る限り、その可能性も大きいようにも思えてきます。二重の不治の病を背負いながらも、誰のせいにすることなく自己批判と自省を繰り返した康花と彼女の作品は、一般的であるどころか決して付き合いやすい対象とはいえません。加えてテーマは戦争でした。にも拘らず、残された感想文とは別に、二度来館した女子がいたほか、再来を約して行く男子もいたのです。大人の来館者は依然として数えるほどの中、美術館存立の意義だけは確かなもののようです。
 
 そんなことをこの夏休み、中学生たちから気付かさせてもらいました。