後数時間余りで新年を迎えることになりますが、不定期なこのブログにこの一年もお付き合いくださり御礼申し上げます。又、松本の康花記念美術館の方にもお越し頂いた方々にもこの場を借りて厚く御礼申し上げます。
原発の再稼動や株価の恣意的な引き上げというマネーゲームの常態化に象徴されるように、今年もGNP信仰から離陸できない日本経済でしたが、暮れ近くになって、テレビを通じて高齢者の質素な日常風景に接し、教えられたばかりでなく、ゼロ成長論者としては勇気付けられも致しました。
国の借金が嵩む中、福祉厚生の切り下げが不可避? となっている昨今、「老後破綻」の人が増えているというテレビ番組で、月4万5千円の年金で生活しているという高齢の婦人が紹介されました。家賃光熱費を引くと、残りの1万5千円が食費代ということで、三度の食事は二度に切り詰めることもあるということでした。今日の見かけ上の経済大国の水準から見たとしても、日本人の一人当たりの平均所得のおよそ8分の1に過ぎないこの婦人の収入額が貧困階層に位置づけられることは明らかでしょう。正に「老後破綻」の実相を見せられた思いでした。
しかし胸に詰まると同時に感じたのは、彼女らが赤貧に耐えながらも、決して品格を貶めないどころか、むしろ彼女たちから自立した清貧の美しさ垣間見ることができたことでした。さらに言えば、彼女たちに比べれば2倍、3倍、それ以上の収入がありながら「老後破綻」を口にし、大量のエネルギー・消費生活を持続しようとしている人たちに、改めて問題の核心をを突きつけていたようにも思えたのです。恐らく彼女たちにとって、今の収入が倍になるだけでも生活の改善は大幅に進むことになるでしょう。そして恐らく、それは薄着をして室内を暖房し、上着を羽織って冷房するような消費生活に立ち戻ることではありますまい。なぜなら、彼女らは、しもやけ、あかぎれ、を知っているからです。
かつてこのブログでも取り上げた記憶がありますが、農業をしている僕の知人で、連れ合いと食べ盛りの子供3人を抱えた5人家族が年間200万円余りで生活していることを報告したことがあります。この家族の一人当たりの年間収入も40万円で、上述の婦人と単純に比較すれば、ほぼ同じ程度ということになります。厳密に言えば、自給自足している農家との比較は正しいとは言えませんが、それでもこの農家の人たちの所得が、日本の平均所得よりも大分低いことは確かです。僕がこの家族を再び取り上げたのは、所得は少なくても、彼等には“貧しさ”を感ずるどころか、誇りを持った彼らの生き方に教えられることの方が多々あったからです。
原発の再稼動反対に声を大にすることも大事ですが、それ以上に欠かせないのは、僕たちの日常生活そのもののあり方です。僕のゼロ成長論の根拠の一つとなっているインドの映画監督サタジット・レイは、かつて現代の物質文明を批判するヒッピーに代表される「先進国」の人たちに対して、「栄養たっぷりのケーキを食べ過ぎて投げ出した子供のように見える」と表現したことがありました。牽強付会かもしれませんが、進歩的な新聞と見られている朝日新聞が、原発や従軍慰安婦などの問題で叩かれたのも、「持続可能な発展」という世論のまやかしに便乗し続けてきたからに他ならないような気がします。
翻って我が身はどうか? 昨年、康花美術館は入館料を300円から500円に引き上げました。一ヶ月の食事代1万5千円の人に、やすやすと払える料金ではありません。このことも「老後破綻」から教えられたことです。再考すべし。
原発の再稼動や株価の恣意的な引き上げというマネーゲームの常態化に象徴されるように、今年もGNP信仰から離陸できない日本経済でしたが、暮れ近くになって、テレビを通じて高齢者の質素な日常風景に接し、教えられたばかりでなく、ゼロ成長論者としては勇気付けられも致しました。
国の借金が嵩む中、福祉厚生の切り下げが不可避? となっている昨今、「老後破綻」の人が増えているというテレビ番組で、月4万5千円の年金で生活しているという高齢の婦人が紹介されました。家賃光熱費を引くと、残りの1万5千円が食費代ということで、三度の食事は二度に切り詰めることもあるということでした。今日の見かけ上の経済大国の水準から見たとしても、日本人の一人当たりの平均所得のおよそ8分の1に過ぎないこの婦人の収入額が貧困階層に位置づけられることは明らかでしょう。正に「老後破綻」の実相を見せられた思いでした。
しかし胸に詰まると同時に感じたのは、彼女らが赤貧に耐えながらも、決して品格を貶めないどころか、むしろ彼女たちから自立した清貧の美しさ垣間見ることができたことでした。さらに言えば、彼女たちに比べれば2倍、3倍、それ以上の収入がありながら「老後破綻」を口にし、大量のエネルギー・消費生活を持続しようとしている人たちに、改めて問題の核心をを突きつけていたようにも思えたのです。恐らく彼女たちにとって、今の収入が倍になるだけでも生活の改善は大幅に進むことになるでしょう。そして恐らく、それは薄着をして室内を暖房し、上着を羽織って冷房するような消費生活に立ち戻ることではありますまい。なぜなら、彼女らは、しもやけ、あかぎれ、を知っているからです。
かつてこのブログでも取り上げた記憶がありますが、農業をしている僕の知人で、連れ合いと食べ盛りの子供3人を抱えた5人家族が年間200万円余りで生活していることを報告したことがあります。この家族の一人当たりの年間収入も40万円で、上述の婦人と単純に比較すれば、ほぼ同じ程度ということになります。厳密に言えば、自給自足している農家との比較は正しいとは言えませんが、それでもこの農家の人たちの所得が、日本の平均所得よりも大分低いことは確かです。僕がこの家族を再び取り上げたのは、所得は少なくても、彼等には“貧しさ”を感ずるどころか、誇りを持った彼らの生き方に教えられることの方が多々あったからです。
原発の再稼動反対に声を大にすることも大事ですが、それ以上に欠かせないのは、僕たちの日常生活そのもののあり方です。僕のゼロ成長論の根拠の一つとなっているインドの映画監督サタジット・レイは、かつて現代の物質文明を批判するヒッピーに代表される「先進国」の人たちに対して、「栄養たっぷりのケーキを食べ過ぎて投げ出した子供のように見える」と表現したことがありました。牽強付会かもしれませんが、進歩的な新聞と見られている朝日新聞が、原発や従軍慰安婦などの問題で叩かれたのも、「持続可能な発展」という世論のまやかしに便乗し続けてきたからに他ならないような気がします。
翻って我が身はどうか? 昨年、康花美術館は入館料を300円から500円に引き上げました。一ヶ月の食事代1万5千円の人に、やすやすと払える料金ではありません。このことも「老後破綻」から教えられたことです。再考すべし。