農文館2

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❝コンビニ社会❝の中で「シュール―絵は考える」展を開く

2017-03-26 10:06:38 | 日記
先週、田んぼで堆肥を散布しながらラジオを聴いていると、懐かしい作家の声が流れてきました。戦前戦後の“無頼派”とも言われる坂口安吾の声で、何篇かの作品(『堕落論』など)は読みましたが、声を聞くのは初めてで、半世紀近くも前に感じていたイメージとは違う感じがしました。実際の声こそ流されはしませんでしたが、この番組では、その他同時代の太宰治と梅崎春生が取り上げられており、これまた遠い昔、わが青春時代を想い起していました。

と同時に気付かされたのは、康花の若き日の読書感想についてでした。坂口安吾については触れていませんでしたが、太宰と梅崎についての厳しい評価とともに、返す刀で自分を断罪していた内容のことでした。「小さな世界の人間のもつ小賢しい物悲しい姿であって」「なんの答えにもならず、なんの希望にもならない」として、自分にも重ね合わせていたのです。15,6歳のことです。病弱であったが故に? 幼い頃からの読書遍歴のひとコマを文字で表現したわけですが、それは彼女の絵の世界にも展開してゆくことになりました。

しかし、絵は文章とは異なり、作者が作品について説明でもしない限り、作者が絵を通じて何を語り、語ろうとしているのか直接的には分かりません。有名であるか、有名でないかを前提としないならば、見る者は、技法の優劣、構図、色彩、新鮮さ、タイトルなどを通じて理解し、共鳴するかしないのです。もちろん好き嫌い、反発批判もあります。康花の作品は、デッサンや写実画を除けば、難解な作品が多いのですが、病という肉体的な実体験とともに、母親を幼くして失った悲しみと衝撃のほか、この読書遍歴(加えて映画遍歴)が大きく影響しているのは確かです。その難解な作品の中でも、とりわけ難解なのが、シュールの作品たちです。

現代社会は、時間と便利さを追求するあまり、とかく物事を深く考えたり工夫しなくなりがちです。正に“コンビニ社会”が王道を極めているということなのでしょう。その点、時代錯誤と言えば時代錯誤、康花は一徹、自分が見聞き学んだ世界を普遍化するために、先人たちと同じように考え、一筆一筆省略することなく、頑固なまでにその思い描こうとしてきました。実は、没後、残された作品のほとんどが、ひと昔を四つ合わせたくらい昔に生まれた筆者の助言からも遠く隔てていたことに、筆者は驚いたくらいでした。しかしその驚きは、太宰や梅崎、あるいはアンドレ・ジッド批判の頃から、彼女の描こうとする世界はすでに始まっていたことで、筆者はただ知らなかったに過ぎないことになるのでしょう。

図らずも、ラジオが伝えた作家、坂口、太宰、梅崎らの一面を耳にしているうちに、康花の文章を想い出し、併せてこの四月からの企画展「シュール―絵は考える」をご紹介することとなりました。美術館設立後、今年の9月で丸五年になります。好き嫌いは別として、、昨年の松本の井上百貨店での特別展を含めて、かなりの来館者の方々は、長短はあれ、対話した康花の作品についての考えや思いを言葉に残されています。薄氷を踏んでいるかのような”コンビニ社会”の先行きがますます怪しくなっている今日、なにがしかのヒントを彼女の作品から読み取ってもらえているように感じています。シュールの他に、風景画、初期の人物画なども展示しています。ご来館をお待ちしております。(康花美術館ブログ3月25日付より転載)

石原さん安倍さんの弁明と『ソクラテスの弁明』

2017-03-06 11:12:19 | 日記
 先頃、記者会見で話された石原さんの「豊洲移転問題」に対する弁明、国会での安倍さんの「森友学園・夫人名誉校長問題」に対する弁明、余りにも予想していたとおりなので苦笑してしまいました。「美しい日本」を唱える戦後生まれの安倍さんはともかく、日頃、武士(もののふ)の生き方を大上段から吼え続けてこられた戦前生まれの石原さんでもあっただけに、これまでのご自身の三文小説に見切りをつけて、せめても同じ言葉を職業とした先輩三島由紀夫の活字にあるいは近づけた言葉が聴けると思いきや、やはり石原さんは石原さん、シェークスピアがどこかで書いていたと思いますが、所詮は「女から生まれた男など怖くはない」に類した男? だったのでしょう。もとより安倍さんおやではあります。

 にも拘らず、情けなく悲しい思いは募ります。男の中の男、弁明論の極致、50年以上前に読んだプラトンの『ソクラテスの弁明』が想い起こされます。国家反逆罪に問われたソクラテスは、弁明いかんによっては死罪を免れたにも拘らず、自己信念を貫くための弁明をすることによって甘んじて処刑されます。更に近世に入っては、イギリス国王ヘンリー八世の甘言にも与することなく、再婚を禁じたカトリックの教義に順じ国王の再婚に同意しなかったために断頭台に消えた名著『ユートピア』の著者トーマス・モアが思い浮びます。
 日本人のお二人に共通しているのは、いつも自らを省みることなく、外敵を作り出し、いわば凡人の処世術とも言える「他人のせい」にしてその場を切り抜けていることです。もっともそれに乗せられているのも我々庶民であるということなのでしょう。大宅壮一曰く「一億総白痴時代」、誠に「世界は偉人たちの水準で生きることはできない」(『金枝篇』)と書き残した人類学者フレイザーの言う通りなのかもしれませんが、偉人たちはともかく多少の知性は身につけたいものです。

 ちなみに、『ソクラテスの弁明』は、教壇に立っていた一次期、学生諸君に期待を込めて百冊の推薦本の中の一冊に入れていたものです。思い出されている受講生もあるいはおられるかもしれませんが、このブログを読まれている方にもお勧めします。