農文館2

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小保方さんだけなのか?

2014-03-15 09:59:19 | 日記
 「似たようなことが起こっているのであれば、時代のなせる業、カルチャーが変わったなと非常に心配している」。ノーベル賞受賞者として研究の厳しさを知る野依理事長は険しい表情で述べた、とありましたが、大学教師として過去に似たような経験のあった事例を振り返り、小生自身、改めて“時代のなせる業”とした当時の対応の甘さにわが身を衝かれたような思いです。

 入るは難しく、出るは易しい大学、安易な学位の授与、若い研究者の学会誌への投稿、いずれも提出された論文に対する査読が、自分も含めて緩やかになっていた(る)ことは否めないようです。研究活動を始めた当初、小生が提出論文の全面的な書き直しを命じられたことを、学生や若い研究者たちに話したことがありますが、批判されることを恐れているのか、反応は余りありませんでした。

 理研という日本を代表する研究機関、万能細胞、もしかしたらノーベル賞? と言った話題に事欠かない事件であっただけに、毀誉褒貶、当事者である小保方さんが一転してマスコミの批判の矢面の立たされていますが、この問題は一人彼女だけに起きたことではないように思います。下流地域ではそれが表沙汰にならないだけで、野依さんが「非常に心配している」ことが現実化あるいは稀ではなくなっているのかもしれません。昔と異なり、各大学が作り出す「博士号」の量産化もその反映といえなくもありません。

 その背景にある最大の要因の一つは、情報が容易に入手できる環境にあることです。その最たるものがインターネットの普及ということなのでしょう。昔のように図書館に行ってカードを一枚一枚調べ現物の資料に当たるといったような手間のかかる作業とは違い、いながらにしてパソコンから資料を読み漁っている内に、いつの間にか自分のものと勘違いして入力原稿化することは大いにあり得ることです。査読する側にしてみれば、日頃から執筆者の文章、言葉の内容を充分に把握していれば別ですが、膨大な情報が氾濫している中、執筆者の人となりも知らぬ査読者が、引用ならぬ執筆者の文体に変換された引用文の出所を突き止めることもまた難しいことです。
 その上、80年代後半から加速化しだした大学研究機関の民営化、短期的な成果主義によって、研究者たちが時間をかけ落ち着いて課題に取り組むことを難しくしました。基礎的な研究が等閑にされているのが良い例です。過当競争が常態化している中、若い研究者が論文作成過程で文章を練り上げ、あたため、訂正に訂正を加えて完成させるような状態ではないのです。査読側もしかりです。それこそ、野間宏や大西巨人が一つの作品に三十年余りの歳月をかける一方、それに応じる出版社があったなどということは遠い昔話になってしまいました。

 今回の騒動で、論文取り下げについて共同執筆者の若山教授と小保方さんのやり取りがメールでとありました。出来ることならお会いして、さらに言えば手紙のやり取りであればと思ったりもしました。かつて恩師の一人は、肝心なことについては手書きの文章でやるようにと、小生に諭してくれたことがありました。メールが日常化している中、ついずっこけがちになっていますが、この騒動を通じて、恩師が言っていた自ら辞書を引いて字を書くことの重要性もまた気付かせてくれた思いです。便利で安易になりがちな社会の中で、せめてもということなのです。
 いずれにしても、他人事では済まされない教訓的かつ深刻な問題提起であったと、小生は受け止めています。 

大西巨人と野間宏

2014-03-13 10:22:35 | 日記
 大西巨人さんとの最初の出会いは、54年前、18歳の時だった。野間宏の『青年の環』を初め彼の作品を夢中になって読んでいる頃だった。その後小生の終生の師となった野間に対し鋭い批判の矢を向けたのが大西巨人だった。戦後文学の分水嶺ともなった野間の『真空地帯』を批判しその克服の小説として世に問うたのが『神聖喜劇』だった。それはフランスの文豪バルザックの『人間喜劇』をも飲み込むほどの大長編大河小説であった。二つの小説は、ともに「新日本文学」誌に連載されていたが、余りの長編で年月を要したがゆえに、文学雑誌の連載の枠を超え、『青年の環』も『神聖喜劇』も完結はともに単行本での出版を待たねばならなかった。

 野間の『青年の環』は、もともとサルトルの実存主義文学に対する批判の集大成として書かれた小説であったが、その一方で同時代に書かれた大西の野間批判の書『神聖喜劇』を意識して書かれたことも又事実であったように思う。当然、大西にとっても、『真空地帯』を見据えながらも『青年の環』は気にかかる書であったことは間違いない。つまりこの二つの日本文学史上の大著は、そのどちらが欠けても存在しなかったと言ってよいのである。

 私事ながら、幼時に父を亡くした小生にとって、青春時代に接した野間の知と実践、そして大きく包み込むような人間性は強烈な光をもってわが魂を射抜き、理想の父親像を重ね描きながらその後の小生の人生指針となっていった。その野間を批判する大西巨人とは、最初に出版された新書版(光文社)を貪るように読んだ後のショックは大きかった。主人公東堂太郎の「知」をもって“真空地帯”に抗する姿は、『真空地帯』の主人公木谷とは違った、「知」に憧れる青年たちの誰もが抱く理想の青年像だった。仮に小生に多少の古典文学についての素養が身についたとするならば、その大分は東堂の「知」を通して、学んだような気がしている。

 その大西巨人さんが昨日97歳で亡くなられた。野間宏、そして加藤周一に続いて、恐らく最後であろう小生にとっての知の巨人が去って行かれた。『神聖喜劇』は漫画本でも出版されたようだが、若い読者の皆さんは原書で読んで欲しいと思う。合わせて『青年の環』にも挑戦して頂きたい。何年前だったか、東京の山手線内で岩波文庫版の『青年の環』を読んでいる青年に遭遇したことがあった。嬉しく思い、娘にも話した記憶がある。それに意を強くして、これからの進路選択に悩んでいた教え子の一人に『神聖喜劇』を推薦したことがあった。彼はその後読んだのだろうか。
 「私の大学」、大学には通っても通わなくとも、人生には「出会いという大学」がある。その大きな切っ掛けの一つが書物。30歳で夭折した画家詩人であった須藤康花は、十代の頃、本には「宝物が隠されている」と表現している。「出会い」は歳をとってからでは遅すぎる。出会っても「宝物」に気が付かないことが多い。歳をとればとるほど、俗情が支配する。
                                                  合掌


 

『最果て』が伝える美しさに溢れ出る多様な感情

2014-03-09 09:41:02 | 日記
 3月から康花美術館も平常通りの開館となりました。残雪と寒さもあってか、来館者は平均して一日一人程度です。そんな中にあっても、深く熱い感想を書いてゆかれる方々に力づけられています。以下は、東京から初めて来られた女性、もう一人は展示作品が変わる度に来館される男性の方の感想です。

命の深遠さを味わう
 人間は必ず死ぬということを思い出させてくれました。まるで瞑想廟に来たような気持ちで命の深遠さを味わいました。須藤康花という人の心の軌跡を知ることができる散文が添えられていたことが、この美術館の体験を奥深いものにしてくれたと思います。彼女の文をもっと読んでみたい。D.T.

存在する美しさに涙する
 何度か足を運ばせてもらっています。好きな作品は数多くありますが、やはり『最果て』には來る度ごとに凄まじいエネルギーに圧倒されます。存在する美しさに涙する、いや美しさというのも、悲しさ、苦しみ、激しさ、儚さだったり、様々な感情が一点に集結してあふれ出てくる様な感じがします。全てが彼女にとっては、美しさだったんだろうなと僕は思いました。泣いても泣いても、泣きじゃくってもまだあふれてくる感情。この様なその激しさは生きている限りは永遠に尽き果てることのないものなのでしょうか。
 『光の回廊』展では、12の作品に魅了されました。1~12まで進む度に奥に輝いている光がまぶしくなっていく感じがしました。Y.R.

『永遠のゼロ』とよそ事でなくなる『ロード・オブ・ウォー』

2014-03-07 19:27:20 | 日記
 『永遠のゼロ』と言う映画が大ヒットしているそうですが、日中、日韓の関係が冷戦もどきに冷え込んでいる中、対米関係を重視する政府は、集団的自衛権、武器輸出三原則をお土産に、アメリカの不信感を取り除こうとしています。戦争と武器輸出がどういうことなのか、映画『ロード・オブ・ウォー』は、『永遠のゼロ』の中身を検証するうえでも観て戴きたい作品の一本です。主人公がウクライナ人であることも時宜を得ています。

『ロード・オブ・ウォー』がよそ事でなくなる?    
                                 
 『カンタ!ティモール』、2011年に一般公開された、広田奈津子監督のドキュメンタリー映画。カンタはティモール語で「歌え」を意味するといいます。その歌の中に「戦争は過ち、大地が怒るよ」という文句があるそうです。と言うのも僕は未だこの作品を観てはいないのですが、2002年に東ティモールが、インドネシアから独立するまで、およそ450年、ポルトガル、オランダ、日本、オーストラリア、インドネシアの支配下、にあったことを想えば、この歌の意味するところは伝わってくるような気がします。

 実はこの作品を知ったのは、東京新聞の社説(2014年1月13日)を通じての事で、今回紹介する『ロード・オブ・ウォー』(2005年、アンドリュー・二コル監督)は、この作品がその切っ掛けを提供してくれたのです。植民地と独立、そして戦争と武器は付き物です。「積極的平和主義」の下、アメリカと一緒に戦争のできる国となるために、集団的自衛権の発動が俎上に載せられているのに加えて、「武器輸出三原則」の撤廃・見直しが着々と進行しています。「武器輸出三原則」とは、①共産圏諸国、②国連決議で禁止している地域、③国際紛争地域には武器及びその製造技術、転用可能品目を輸出できないというもので、それ以外の地域には輸出はできるのですが、平和憲法を国是としている建前、実質的には「慎」んできたのです。その安倍さんは、アジア、中東、さらにアフリカ諸国へとこれまで以上に幅広く外交セールスに励んでいます。原発の輸出や外国投資の促進が目的だそうですが、「武器輸出三原則」の撤廃が、政情不安なこの地域にティモールの人たちが歌う「戦争は過ち、大地が怒るよ」に繋がらないのか、危惧することしきりです。

 アカデミー賞監督オリバー・ストーンが『もう一つのアメリカ史』で指摘するまでもなく、第二次大戦後アメリカが関わってきた旧植民地諸国での紛争は「ノー」というのが困難なほど切りがありません。映画はそうした旧植民地の内紛に乗じてアメリカや旧ソ連の武器を売り込む「死の商人」を主人公にした波乱万丈の物語。旧ソ連邦のウクライナからアメリカに移住してきた主人公ユーリ・オルコフ(ニコラス・ケージ)一家は、新天地での生活不安を抱える中、ロシアン・マフィアの銃撃戦を目撃し、ユーリは弟ヴィタリー(ジャレット・レト)とともに武器商人の道に入ってゆきます。舞台はベルリンの兵器見本市を皮切りに、現在内戦中のレバノン、南米、そして紛争が今なお続いているアフリカ諸国に及んでゆき、ユーリは巨万の富を得ることになるのですが、この商売に関わった叔父はテロによる爆死、死の商人になり切れない弟は紛争現場で射殺され、妻にも離婚を迫られることになります。そのあげくは国際警察官(イーサン・ホーク)に逮捕されることになるのですが、なぜかユーリは釈放されます。正にことの本質を突く幕切れです。

 ちなみに広田監督は2月号に登場した平和活動家・瀬谷ルミ子さんと同世代、安倍さんの「美しい日本」に賛同する若い方々には、彼女の作品とともに是非観て欲しい二本です。
(『むすび』2014年4月号)

戦争できる国にすることは総理の専管事項なのですか?

2014-03-01 11:07:10 | 日記
 安倍総理の昨日の国会答弁を聞いていて、驚くばかりか耳を疑っています。
 
 「集団的自衛権」の発動については、歴代の自民党政府も九条に抵触するとして、法制局の憲法違反だとする見解に与してきました。だからこそ「集団的自衛権」を推進したいとするこれまでの自民党を中心とする一部の政治家は憲法の改正を口にしてきました。ところが安倍総理は、法制局の見解は、上下関係からいえば政府の下部機関であり、内閣、総理である私の見解が上位に立つとして、国民の声を聞くという手続き、「国民投票」と言う一番大事な手続きを踏まずして、閣議決定だけで「集団的自衛権」の発動を可能にするとしています。
 これに対して最大野党の民主党は、閣議決定の前に国会審議が先だと反論していますが、先であろうが、後であろうが(安倍総理は後で国会審議をやると修正)、「集団的自衛権」の承認が、「戦争のできる国」への大転換であり、平和憲法に抵触することは明らかです。国の最高法規である憲法が、一権力者・集団によって勝手に歪められ変えられてよいはずはありません。憲法は権力者の暴走に歯止めをかけるものであって、権力者が国民を先導するためにあるのではありません。かつてヒットラーがワイマール憲法を骨抜きにしていった過程と重なります。戦争を知らない世代の台頭と、経済ばかりが優先する社会の中で、この国はとんでもない方向に歩み始めていると言わざるを得ません。仮に「戦争のできる国」にするにしても、まずは国民の声を聞くことが、法治国家、民主主義国家としての大前提です。安倍内閣の今の姿勢は、「集団自衛権」の発動の要因としているどこかの独裁国家に倣おうとしているかに写ります。
 安倍さんたちが仮想敵国探しで戦争に過敏になっているように、実際の戦争を知る世代にとっても過敏にならざるを得ないのです。建前は民主主義を標榜していながらも、大手のマスコミはほとんどが「大本営」化し、これほどに国民がなめられ愚弄されている現状を衝こうとはしません。来る東京大空襲忌を思い起こしながら、何はともあれと小さな声を上げた次第です。

 このブログを読んで下さった皆さん、家族はもとより、友人知人たちに、今この国がとんでもない方向に動き出そうとしていることを是非お伝えください。それは賛成反対以前の民主主義の是非を問う問題でもあります。すでに「特定秘密保護法」は議決され、「集団的自衛権」の後には、「武器輸出三原則」の解禁も控えています。