「赤い靴の女の子」には何故こんなにも惹き付けられるのだろう。
小学校5年生だった3月。
春休み入ってからずっと微熱が続いていた。
持病の胆石で寝込んでいた母の医者を呼びに行ったり、薬取りなどで走り回っていた。
息が上がるほどきつかったが、風邪ぐらいだろうと思っていた。
3月30日、自転車で外出しようとして倒れた
診断の結果、肺浸潤とわかった。
初期の肺結核である。今、この病の名前は聞かない。
2歳の頃、肋膜炎を患い生死の境を彷徨った事があったと、母を極度に落ち込ませた。
当時、肺結核は不治の病とされ、人里遠く隔離された。
運良く、私は自宅療養と言うことになった。
新薬と言われたアメリカからの輸入医薬品「ストレプトマイシン」を打ち続けた。
毎日、午後になると主治医が、どでかいオートバイに乗ってやってくる。
「ドドドッ」と爆音がする度に慄えあがった。
馬にするような巨大な注射器を尻にブスッと刺すのである。痛いどころではなかった。
42本だ。だから42日間、怯え、耐え抜いた。
栄養を摂って、絶対安静。一日中寝ていた。
父は勤めに、母は畑に出ていない。
森閑とした部屋に残され、ラジオを着流しに聞くだけであった。
寝たっきりを3ヶ月、寝たり起きたりを3ヶ月ほど続けた。
ラジオだけが友だちだった。もっぱらNHK教育番組を聞いた。
その頃は、童謡や唱歌がよく流れていた。
「赤い靴の女の子」はそうした頃に聴いた。
横浜山下公園では広い園内はバラが満開だった。
帰宅後知ったことだが、横浜では方々でバラに関するフェスティバルが開かれていたようだ。
催物の準備だろうか、舞台づくりの人々だけが忙しげに働いていた。
港に来て、港風景を撮っておかないということはない。
テレビや雑誌で見慣れた風景だけど横浜のあの全容を撮影することだけは難しかった。
切り取って写したものの中から・・・。
夕闇が迫る。
「港が見える丘」に向かった。
途中、外人墓地を左に見ながら道なりに歩を進めた。
さすが国際都市横浜。
道端の花々にも手入れが行き届いていた。
「港が見える丘」、もっと広々とした高台と思っていたが、思ったほど広くはなかった。
しばらくひとりポツネンと港を眺めていた。
きっと夜がいいだろうなあと思いながらも港が見える丘を後にした。
帰途、ふと見るとエレベーターがある。
まさかと思って乗ってみた。
真っ直ぐと丘の登り口に降りた。
これには驚いた。さすが国際都市横浜!
<余談>
今年は旧盆と8月盆が全く同じ日。
8月13,14,15日が旧暦7月13,14,15日である。
そこで考えた。
東京あたりでは盆は新盆と云って、新暦7月13,14,15日としている。
では何故、我が地方は新暦の8月13,14,15日を盆とするのだろうか。
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小学校5年生だった3月。
春休み入ってからずっと微熱が続いていた。
持病の胆石で寝込んでいた母の医者を呼びに行ったり、薬取りなどで走り回っていた。
息が上がるほどきつかったが、風邪ぐらいだろうと思っていた。
3月30日、自転車で外出しようとして倒れた
診断の結果、肺浸潤とわかった。
初期の肺結核である。今、この病の名前は聞かない。
2歳の頃、肋膜炎を患い生死の境を彷徨った事があったと、母を極度に落ち込ませた。
当時、肺結核は不治の病とされ、人里遠く隔離された。
運良く、私は自宅療養と言うことになった。
新薬と言われたアメリカからの輸入医薬品「ストレプトマイシン」を打ち続けた。
毎日、午後になると主治医が、どでかいオートバイに乗ってやってくる。
「ドドドッ」と爆音がする度に慄えあがった。
馬にするような巨大な注射器を尻にブスッと刺すのである。痛いどころではなかった。
42本だ。だから42日間、怯え、耐え抜いた。
栄養を摂って、絶対安静。一日中寝ていた。
父は勤めに、母は畑に出ていない。
森閑とした部屋に残され、ラジオを着流しに聞くだけであった。
寝たっきりを3ヶ月、寝たり起きたりを3ヶ月ほど続けた。
ラジオだけが友だちだった。もっぱらNHK教育番組を聞いた。
その頃は、童謡や唱歌がよく流れていた。
「赤い靴の女の子」はそうした頃に聴いた。
横浜山下公園では広い園内はバラが満開だった。
帰宅後知ったことだが、横浜では方々でバラに関するフェスティバルが開かれていたようだ。
催物の準備だろうか、舞台づくりの人々だけが忙しげに働いていた。
港に来て、港風景を撮っておかないということはない。
テレビや雑誌で見慣れた風景だけど横浜のあの全容を撮影することだけは難しかった。
切り取って写したものの中から・・・。
夕闇が迫る。
「港が見える丘」に向かった。
途中、外人墓地を左に見ながら道なりに歩を進めた。
さすが国際都市横浜。
道端の花々にも手入れが行き届いていた。
「港が見える丘」、もっと広々とした高台と思っていたが、思ったほど広くはなかった。
しばらくひとりポツネンと港を眺めていた。
きっと夜がいいだろうなあと思いながらも港が見える丘を後にした。
ーすべての写真はクリックで拡大ー
帰途、ふと見るとエレベーターがある。
まさかと思って乗ってみた。
真っ直ぐと丘の登り口に降りた。
これには驚いた。さすが国際都市横浜!
<余談>
今年は旧盆と8月盆が全く同じ日。
8月13,14,15日が旧暦7月13,14,15日である。
そこで考えた。
東京あたりでは盆は新盆と云って、新暦7月13,14,15日としている。
では何故、我が地方は新暦の8月13,14,15日を盆とするのだろうか。
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とても珍しい色々なショット、見せていただき、siawase気分です。
ありがとうございました。
ブログ交流で、ちょっと得した気分、いいものですね。
応援ポチ。
恒例の食事会ですね。
この次は、きっと中華料理を食べます。
noraは山下公園まで歩いたような記憶があります。
今、思い出しました。
若い頃好きだったのは「焼きビーフン」でした。
あとはみんなでとったお皿をちょこちょこつまむだけでした。
シャッター切ってもらったおじさんがいたずらしたかと思っていました。
本人であると、覚悟を決めました
赤い靴を履いた女の子、場所によって銅像が違っていて
楽しめますよね~
先日、中華街ランチをしましたが
猛暑で、山下公園まで行く気力がありませんでした
写真は私が知っているnoratanです。
確かにちよっとお爺ですが・・・
良い写真です。
沖縄でゴルフしても帽子をかぶったことがありませんでした。
先輩が帽子を買ってくれましたが、かぶりませんでした。
今は、帽子をかぶっています。
この頃は禁煙していました。7月頃から少しばかり吸い始めました
いい男?
これはnoratanでありません
もっといい男です。少し爺さん過ぎませんか
hiroさんもこの猛暑、気をつけるのですよ
頭には必ず遮へい物を載せておくようにね
noraは帽子を忘れちゃゴル場で買った帽子が10ほどありました。
それを使っていましたが、今は3つになりました
またまた力作ですね・・・
私は横浜はあまり縁がないので、コメントが出来ませんが、義父の法事に行ったとき、公園でベンチに座っていた時のことを思いだしました。
今はタバコは休煙していますが、その時は吸っていました。
となりで、口論になっているのが耳に入ってきました。
ここはタバコが禁煙でタバコを吸うと罰金を払わないといけないそすです。
私ももう少しでタバコを吸うところでした。
ところで、noratanの写真グーです。
良い男が引き立っています。
素晴らしいブログありがとうございました。
暑い日がますので、ご自愛願います。
治療に入ったのは6年生でしたからお兄さんよりふたつ年下のときですね。
ベルさんの仰るとおりの世相でした。
2学期から登校しても良い、という医師の許可が出たのですが、親は心配して11月にやっと6年生の初登校です。
ところが、二日目に熱を出して休んでしまいました。
親の動揺は激しく、次の日から又欠席です。
どうしてそうなったかは定かではありませんが、6年生2日間と卒業式の参加だけで卒業出来、中学に進学しました。
6年生まるで行かなかったのですが、その時NHKの学校放送を聴いていたことが随分役に立ったと思います。
横浜の浜風は快かったですね。
横浜の社会はもっともっと奥が深く、広いだろうなと感じました。
氷川丸のことはすっかり忘れていました
公園に岸壁には船がないなあと感じていたからそうかも知れませんね。
mariさんのおっしゃるとおり、両親は大変だっと思います。
恥ずかしいことにそんなことに気づいたのは、ほんの2,3年前でした。
昭和27年だっと思いますから、まだ日本は戦後のどん底生活でした。
「この薬なら大丈夫です。出たばかりの新薬です」医者はそう言っていました。
手に入れるのも難しいと云っていたのを、今になって思い出しました。
二束三文で土地を手放していったと思います。
親不孝者ですね
20歳の後半に母、30歳半ば過ぎ父をなくしました。
親孝行のかけらもすることなく、感謝の気持のひとつも云っていません
せめて、今年も霊前で感謝の気持だけでも伝え、親不孝を詫びます
ベルさんの兄も中学2年の時、結核になって山の病院へ隔離されましたね。
1年間でしたが、余りお見舞いには行けませんでした。
母親があまり行かせたくなかったようです。
学童病棟だったので、明るく綺麗な建物だった記憶が・・・
結核になったことで、ご近所の目が気になる生活だったと、
未亡人の母は苦労したようですよ、そう言う時代だったのです(ー。ー)
主人は横浜に1年余暮らしたけど、観光などする間もなく、
大阪万博の年に、香川へUターンしましたが、ずっと居たら、
ベルさんもここを歩いたかも知れませんね(笑)
山下公園は懐かしいですよ!
氷川丸が停泊していませんでしたか?
東京にいた頃、よく桜木町に友が
いたので遊びに行きました。
たぶん、6枚目の大きな船がそうではないかなぁ~?
noratanと赤い靴の女の子、貴重な
良い写真ですね!
頂いておきましょう!
noratanは幼き頃にそんな大病を
されたのですね!
その頃の注射は高額だったのではないでしょうか?
その頃は保険証などあったのかなぁ~
すっかり忘れてしまいました。
今のように、腰や膝が痛いといって
病院など行かなく富山の薬売りの
置き薬で良かったのだと思います。
第一、病院など行くような大病は
しなかったと記憶しています。
biratanが受けた治療はご両親も
大変だったことでしょう。
今までお元気で生きてこられたのも
ご両親のおかげですね!
お互いに両親には感謝です。