あれやらこれやら いろいろ沖縄

沖縄に住み30数年の県外居住者が見た沖縄の生活や人情・自然や文化、観光。「あれやらこれやら」気ままに。

行ってみたかった川崎・横浜 ~ 川崎 稲毛神社・巣鴨j地蔵通り商店街⑩了

2019年09月11日 14時36分47秒 | Weblog

 5月17日、きょうでこの旅は終わる。
ホテルはビジネスホテルで川崎市の官庁街でJR川崎駅から10分ほどの閑静なところにあった。
昨日の朝、出かける途中で大きな神社が目についたので、今朝、お詣りだけでもと、寄ってみることにしていたので、早目にホテルを出た。
 稲毛神社である。
拝殿で参拝して、少し境内を周ってみた。


 境内はかなり広いようだ。
案内板ばかり撮ってご本体がない。







 樹齢1000年以上という「御神木大銀杏」
どのように撮れば巨大さがわかるかと悩んだなと思い出した。
結局はこの一枚となった。



 昨夜から決めていた老人に人気のあるという「巣鴨商店街」に行かねばならない。
お詣りだけと決めていたので「稲毛神社」は早々に引き上げた。


 駅を出るとすぐに商店街はあった。
「巣鴨地蔵通り商店街」


 ほんとうだ。
行き交う人達は老人が多い。
不思議に、それなりに活気があった。
アメ横と違ってゆったりした人の流れがいい。
テレビで話題にするところだから、老人の商店街以外にも何か筈だ。
しかし、「年寄の商店街」以外にはさっぱり思い出せなかった。

 突然、商店街の中に大きなお寺をみつけた。
境内は賑わっている。
御札などを売っている境内で訊ねた。



  「曹洞宗萬頂山高岩寺」といい、ご本尊は「とげぬけ地蔵尊」。
聖観世音菩薩像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るというので列に加わった。
どのようにしたかは思い起こしてみるが、詳細は思い出せない。
ただ、その場でタオルが売られていて、悪いところをタオルで拭うと治るというので買った。
神仏のこうした売買の行為を「買う、売る」と表現するのは適切でないだろうが言葉が浮かばない。

 すぐ近くには眞性寺というお寺もあった。



ーすべての画像は画像をクリックすると拡大ー


 記事を書くに当たり、少々、ネットで調べてみた。
巣鴨は中央道の入り口にあたるので、旅の安全を守る地蔵尊があるという。
江戸六地蔵尊のふたつが巣鴨にあるのだ。
「地蔵通り」と言われる由縁はこれであったかと合点した。


<稲毛神社>
 神社のご創建の年代は詳らかではないが、御神木大銀杏の樹齢が1千年と推定されるところから、当地の古社であることがわかる。
社伝によれば、東国に争乱の絶えなかった頃、武神・武甕槌神をまつり、天皇軍の戦勝を祈る社として建てられたと伝えられている。
第十二代景行天皇が東国御巡遊のおり当神社に賊難を避けられたといい、第二十九代欽明天皇の御代、この地方に動乱が絶えなかったため、天皇は当神社に幣帛・七串を奉り、新たに経津主神、菊理媛神、伊弉諾神、伊弉冉神を配祀せしめられ、戦勝とその後の親和協力を祈られ、以後長く勅願所であったと伝えられている。
 神社は初め御祭神の御名をそのままとって、「武甕槌宮」と称していたが、平安時代末期にこの地を領有した河崎冠者基家(秩父平氏)が山王権現を勧請して以後「河崎山王社」「堀之内山王権現」「五社山王」「三社宮」などとよばれていた。
 山王権現の称号は、天台宗系の神仏習合思想「山王一実神道」によるが、慶応四年、下向された有栖川宮熾仁親王殿下が当神社にご休憩され、その折りの殿下の御言葉「御社名、新政府の神仏分離の方針に相応しからず」により、鎮座地武蔵国稲毛庄の名をとって「川崎大神稲毛神社」と改称した。
その後、一時「川崎大神宮」と呼ばれた時期もあったが、明治中期には「稲毛神社」が固定した。
(この項、この記事から抜粋した。)


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 若い頃は東京は好きだった。
地方は未だ復興途上であったが、東京には何でもあった。
小走りでないとついて行けない人の流れがあった。
もたもたしていると、時代に取り残されそうだった。
その緊張感が好きだった。
地方でのんびりと過ごしていてはいけないと感じ、英気をもらって帰ったものだ。
 今回、十数年ぶりに東京・横浜・川崎と歩いた。
老人の身になっても、あの緊張感と時代が流れるスピード感は健在であった。
身が引き締まる思いだった。
60年近く前のあの頃とこの新鮮で、英気に溢れた空気は変わらない。
できることなら2,3年に一度はこの空気を吸いに来たいと思った。


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