靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

小説「砂漠の紅」(仮題)5、推敲中

2011-09-04 04:34:52 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
 次第に冷たくなっていく父の横で、工場長は車を貸さなければよかったと泣いた。父と母は高校を卒業してすぐに工場で働き始めたのだった。結婚して、私が生まれ。

 私は六畳が二部屋と台所があるだけの古い長屋の家で大きくなった。学校から帰って鍵を開けると、湿った畳の匂いが鼻をつく。西日が差し込み始めると、父と母が自転車で戻ってくる。リンリン、リンリン、父は私に帰ったことを伝えるために玄関先で自転車のベルを鳴らした。私は持っていたものを全部放り投げて立ち上がる。夕日を纏った父と母が玄関に立っている。私は二人の顔を見て工場での一日を想像する。機械がうまく動かなかったのかな、帳簿の計算が合わなかったのかもしれない、今日の工場長はとびっきりご機嫌だったんだろうな。父は作業着を着替えるとテレビをつけた。父の頭はスクリーンと台所に立つ母の背中を行き来する。夕焼けに染まった畳の匂いが、鍋から立ち上がる湯気に包まれていく。

 リンリン リンリン 

 アリーがベルを鳴らしている。沈み始めた太陽に照らされた自転車が茶色に見える。もう誰も乗ることのないだろうあの茶色い自転車。

アリーとエリックは少し盛り上がった丘の上で立ち止まり、振り返って手を振る。オレンジ色の蛍光ペンでくっきりとなぞったようなシルエットが二つ並んでいる。私は熱の冷めつつある砂の表面に足を踏み出し、真っ直ぐ歩いて行く。

「もうすぐよ」

 二人の体温をかすかに感じられるほどの距離に来ると、アリーはそう言って水筒を差し出した。温度の保たれた冷たい水を飲みながら、アリーの背後からまぶしい光が漏れているのに気がつく。アリーの後ろを覗き込むようにして見てみる。あっ、と声を上げた。オレンジ色の砂の上に大きくあいた光の穴。

「オアシス」

 アリーは嬉しそうに何度か肯くと、少しはしゃいだ声で言った。

 砂漠中の光という光を集めたオアシス。太陽が地平線に近づくにつれオレンジ色だった空はピンクから水色へそして紫へと変わり始めている。それでもオアシスは不思議なほど輝いたままだ。光というのは太陽からやって来るのではなく地球の奥底から発せられるのじゃないだろうか。太陽が沈んで辺りが闇に包まれてもオアシスは光り続けるているのかもしれない。丘の上に立ち続け夜のオアシスを確かめてみたいという気持ちになっている。

 ふと、胸の奥から湧き上がる感覚に気がつく。それは子供のときに走り回った空き地、雨上がりの砂場、長屋の路地で夕涼みする老婆たち、そんな光景を思い出したときの感覚と似ている。あの『懐かしい』という感覚。なんでだろう? 砂漠に足を踏み入れるのだって、オアシスを見るのだってこの旅が初めてなのに。目を凝らしてようやくとらえられる小さな小さな点のようだったその感覚は、次第に大きな円となっていく。そんな感覚はただの思い過ごしなのだと目をそらしてしまうには、もうあまりにも大きくはっきりとし過ぎている。

私はその『懐かしい』という感覚にとまどいながら、オアシスに向かって歩き始めた。

(一章終わり)