靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

愛するということ

2012-01-06 00:11:29 | 夫婦ノート
「Love is a verb(ラブは動詞)」という言葉は、こちらでパートナーとの関係などについて語られる時によく聞かれる言葉。

「愛があるない」のではなく、「愛する愛さない」という自身の選択があるのみ。


Steven Coveyとある相談者との会話にこんなのがある:

相談者:私の妻と私はもうかつてのような感情を互いに対して持ち合っていない。私はもう彼女のことを愛していないのだと思う。彼女も同じだ。私はどうしたらいいのでしょう?

Covey:感情がもうないということ?

相談者:そうなんです。私達には3人の子どもがあり、私達は本当に心配してるんです。どうしたらいいんでしょう。

Covey:愛しなさい。

相談者:だから言ったように感情がもうそこにはないんですよ。

Covey:愛しなさい。

相談者:分かってくれませんね。愛という感情がもうないんですよ。

Covey:じゃあ愛しなさい。もし感情がないというのなら、それこそ愛する理由になる。

相談者:だけどどう愛することができるんですか愛せないという時に?

Covey:友人よ、愛は動詞なんです。愛という感情は愛するという動詞の実りのようなもの。だから愛しなさい。犠牲を払い(sacrifice)、彼女のことを聞き、共感し(Empathize)、感謝し、彼女を肯定し。あなたはそれらを喜んでできますか?



何の努力もせず燃え溢れるような愛情が湧き出る、確かにそんな始まりがあるかもしれない。それでも互いに愛すると選択し行動に移していくのなら、そんな二人の始めの高まりを互いに維持することは可能なのだろう。

子どもに対しての愛情にも似たようなところがあると思っている。子どもに対する母性や愛情が発露している場合とそうでない場合がある。「この子に対する愛情が湧いてこない」ならば、より思いやり、その子のことを聞き、共感し、肯定し。するとそれらの行為の実りとして愛情がふつふつと湧いてくる。愛があるから思いやるのではなく、思いやるから愛情が湧いてくる。

愛は奥底に常に滞ることなく流れ続けているものなのかもしれない。愛するという選択・行為によってその常にある流れに蓋をしていた詰まりがとれ、尽きることのない無限の愛の泉に繋がる、そんなイメージを持っている。


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2 コメント

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Unknown (よっちゃん)
2012-01-06 11:39:56
ずいぶん前の日記に同じような記述があった気がします
愛はある無いではなく、愛するか愛さないか…

日本には愛がないけど情はあるって便利な言いまわしが
情っていうにふさわしい適切な英単語が無いように思うって話をした記憶があります。

感情の話ではなく本能的には3年位が恋愛感情を持てる期間だそうで、それはより子孫を残そうとする本能。セックスをする対象かいなかという限定的な期間かもしれないけど。

その後は、情だったり依存だったり。
もちろん、十人十色ずっと愛する人もいるでしょうが。

あと、人は一番身近な大切な人を傷つける生き物であるって言葉も印象的に残っています

大切だけど愛し傷つけ合う、色んなしがらみに捕らわれてこれは愛なの?と思う事もしばしば!!

ずっと愛するってすごく難しい事ですね。
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よっちゃんへ、コメントありがとうございます! (マチカ)
2012-01-08 00:48:41
前の日記覚えていてくれてありがとう。自身が大切に感じることは何度でも書いていこうと思ってます。自分がかなり忘れっぽいということも大きいのですが、(笑)今此処に生き生きと保つためにも。ついつい「知ってるから」と終わった気になる自身がいます。

愛と情と、そんな話をしたんだよね。違う言語に微妙なニュアンスをひっくるめて訳すの難しいね。日本語には愛と情がひっついて「愛情」というのもあるね。パートナーや子どもに持ち続けるのは「愛情」というのがしっくりくるのかもしれない。「愛情」は「愛」とひっくるめて呼ばれるものでもあるのだろうね。

「3年位が恋愛感情を持てる期間」、多分これは人類学者ヘレン・フィッシャーが唱えた説からきてるのだと思うよ。学生時代に聞いたことがあります。世界中の離婚したカップルを調査したもの。恋愛の高揚感を起こすホルモンが続くのが3年くらい、と。このEPAホルモンなどが続く期間は冷静な判断思考能力が低下していて「あばたもえくぼ」状態になっている、それが段々冷めてきて普通の思考に戻ってくる。

多分その「高揚感」のみを「愛」だと思ってると、ここで終わってしまうんだろうね。そんな高揚感はおまけのようなもの、愛の行為、相手への思いやりや共感や肯定や、それらについてくるおまけのようなもの。そしてその「高揚感」の質自体も徐々にもっと深いものへと変わってくるのじゃないのかな。

感覚的にそう感じているのだけれど、現実のパートナーとの関係、課題たくさんです。(笑) 互いに実行していくよう、少しずつでも。

子どもと違い、パートナーとの関係は互いが働きかけ合う必要があるね。独り相撲ではどこにもいかない、互いに力を合わせていかないことには。家は彼の方がそういうことをよくわかっているのかもしれない。日本的な夫婦はあまり言葉や形でこういうこと表すのに慣れてないように感じてるよ。

「人は一番身近な大切な人を傷つける生き物である」、よっちゃんの内に残ってる言葉なんだね。距離が近くなるほどこういうことあるね。離れているのなら何も起こらない、でもその分体験するという機会もないね。私はパートナーとの関係を最高の修行のように感じることあるよ。確かにリミットというものもあると思うけれど(私にとってはバイオレンスなど)。

「ずっと愛する」、パートナーとは相互の働きかけが必要なのだろうね。その働きかけ方もその人なりのかたちがあって。互いが納得するよう話し合い共に過ごし大切に水をやり光で照らし肥やしをまき、そうすれば必ず実りはある、そう思ってます。

ありがとうシェアしてくれて。考えさせられました。頑張ろうね、でもあまり無理しないでね。よっちゃんのストレートさに温もりにいつも励まされてます。ありがとう。



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