俺にも一言、言わせろ

世の中、腹の立つことばかり。真面目に生きてる一人として、一言述べさせていただきます。連帯を求めて、孤立を恐れず。

瀬島龍三という人

2007-09-05 11:18:44 | Weblog
瀬島龍三氏は陸軍大学校卒後、大本営陸軍参謀として太平洋戦争を指揮。
シベリア抑留から帰国後1958年に伊藤忠商事に入社。
繊維商社だった同社を総合商社に脱皮させた立役者となった。
航空機畑から始め、防衛庁(現防衛省)向けに、米航空機メーカーの代理店として戦闘機やレーダーなどの装備納入を陣頭指揮した。
軍隊時代の人脈を活用した結果にほかならない。

68年に専務に就き、日米自動車メーカーの提携仲介や、インドネシアなどの石油開発プロジェクトにも手を着け、総合商社への道筋をつけた。

経営改革では、営業主体だった商社に、軍隊で培った組織論を導入した。
陸軍の参謀本部を模した「業務部」を設置。
情報の一元化やリスク管理の徹底で、経営の基盤作りに尽力した。
この組織は
「瀬島機関」
「瀬島学校」
とも呼ばれたほど。
“参謀”としての能力は、中曽根政権下の行政改革でも発揮され、政官財の利害調整を一手に引き受けた。

91年には、88年創設の「高松宮殿下記念世界文化賞」を主催する日本美術協会(総裁・常陸宮殿下)の会長に就任。

ある伊藤忠OBは、
「瀬島さんは、今の日本があるのは英霊たちのおかげ、と言葉少なだった」と、過去について多くは語らなかったという。
ただ、ベストセラーとなった回想録「幾山河」の印税は、千鳥ケ淵戦没者墓苑や靖国神社に寄付していた。

しかし、瀬島龍三の最大の罪は、戦争当時の内幕を公にしなかったこと。
あるいは、できなかったこと。
ロシアに抑留中、ロシアに対し日本の捕虜達を労働者として使うべく、立ち働いたと言う。
本人は当然、否定をしたが。

また、戦後伊藤忠商事に入り、活躍した彼にはいつも、陸軍参謀としての知恵があったという。
常に陰のある男だったと言う。
当然、骨はあっただろう。

しかし、私は思う。
陸軍の参謀にいて、多くの人々を戦争に駆り立て、犠牲者を出した彼は、戦後のビジネス世界で堂々と生きてきたことに対し、私は疑問に思う。

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