俺にも一言、言わせろ

世の中、腹の立つことばかり。真面目に生きてる一人として、一言述べさせていただきます。連帯を求めて、孤立を恐れず。

いじめの問題について考える

2012-07-26 11:16:48 | Weblog

いじめの問題を今更考えることこそ滑稽なり。

この問題は古くからあり、これからもなくならないであろう。

なぜなら、集団が存在するためには犠牲者が必ず出るということ。

このように書くと、多くの人からバッシングを受けるであろう。

しかし、悲しくもそれが現実。

徳川幕府も秩序ある階級社会を維持するため農民の下に民、人を作った。

動物はもっとひどい。

怪我をしたり、弱い存在だけで殺されてしまう。

これが現状なのだ。

こう書いてしまえば、大変なおしかりを受けることになるだろう。

しかし、もう少し、読み続けてもらいたい。

現代社会は江戸時代と違うし、平等の教育もされている。

だから、いじめは怪しからんと教える。

それでは大人社会を見てみよう。

はたして、いじめ社会ではないか?

大人社会こそいじめ社会なのだ。

沈まぬ太陽 ”の主人公は会社から、また、上司から相当ないじめをされたではないか。

いじめられている主人公を仲間はと遠巻きで見ていたではないか。

現実は小説以上に残酷だったと聞く。

仕事と称して、一日壁に向かい、壁拭きをされていたという。

普通の会社の窓際族の社員を見てみろ。

会社に行っても、やることがない。退職するように仕向けられ、周りの若い社員からは冷たい視線がやって来る。そんな目に遭った人は二度とこんな経験はしたくないという。

会社に行きたくないのである。

そんな大人社会があって、子供社会だけは違うなんてありえない。

そんな現状で、私は、こどものいじめを肯定しているのではない。

現実のこのような状況の中で、いじめに遭った人たちを救う手だてはないわけではない。

孤立させないことである。

自分の存在を知ってもらいたいのである。

そのためには唯一、助けになるのは教師だけ。

その教師は、成績を付けるためのテストに追われ、報告書を書くのに追われ、生徒と遊ぶ暇などない。

ここが問題なのだ。

子供にとって成績表は意味があるのだろうか?

テストの点に果たして意味があるのだろうか?

そのことより、小学生や中学生は仲間づくりや、自己を表現できること、基礎体力作りや情緒を安定させることなどが必要なのではなかろうか?

先生の評価は、「この子は人前で十分意見が言える」、「友達と楽しく談笑ができる」などで十分。

しかも、こんなものを高校受験に利用はしない。何のためかというと、この評価は子供と親に対して出すもの。それ以外の何物でもない。

高校受験などは、こういったものを面接だけで評価すればいい。知識量で評価することこそナンセンス。

先生が子供たちと楽しくワイワイガヤガヤやっている教室にいじめがあるはずがない。

文部省の諸君、政治家の教育に関心ある人よ、先生を解放してやれ。

それこそが最善の策と確信する。