雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺のエッセイ「銀杏並木」

2015-09-26 | コラム
 最近、ブックマークしたブログを、今朝も、拝見させて戴いた。もう街路樹の銀杏の木が実を落としていたので、懐かしく思った。
 銀杏の木など、どこにでも植わっているもので、「懐かしい」とは、異なことを言うと思われるかも知れないが、あの実が懐かしいのだ。
 自分が住む住宅地にも、公園や街路に植わっていて、太い木になっている。それにも関わらず実が稔らないのだ。その原因は剪定にある。
 毎年、冬が到来する前に、太い枝ごと切り落として、坊主状態にしてしまう。翌年の初夏の頃に芽吹くのだが、遅くて葉が成長してもスカスカ状態である。「地域を緑で」とか「緑多き市街地」を守ることよりも、市は地域住民の利便重視で「掃除がたいへん」との苦情を優先しているようだ。

 自分の住む近くで、「染井吉野」の大木を過剰に剪定して、枯らしてしまったことがある。風情や環境よりも、住民の生活重視なのだ。この過剰剪定の結果、銀杏の木も生きるために実を付けなくなったらしい。
 十数年前までは、当地の銀杏も実を落として、食品の業者らしき人が軽トラで実を回収したり、お年寄り夫婦が拾ってレジ袋に入れているのが見られたものだ。踏み潰すと臭い銀杏の実も、今となっては懐かしい思い出である。

 自分たちの子供の頃は、お寺の境内などで拾って持ち帰り、庭の隅に穴を掘って埋めていたものだ。素手で触ると手がかぶれることもちゃんと弁えていた。翌春には臭い実が腐って土になり、種だけになったものを洗って干し、焼いたり茹でたりして食べ、または、茶わん蒸しに入れて貰ったりした。業者の場合は、ミカンの薄袋を薬品で溶かす要領で、短時間に「銀杏」にするのであろう。