雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺のエッセイ「地獄はどこにある」

2015-09-07 | エッセイ
 浄土や地獄はどこにあるか。webを旅するとそんな論争していた。阿弥陀如来の浄土は「西方十万億土」の彼方にあるという。これは、距離も時間も関係ない。昔の(今も)信者を納得させるために考えられた「ただ遠い」という観念である。浄土の種類は、宗教の数だけある。「天国」も、その一つだ。
 西方と言っても、宇宙に方位は無い。方位とは相対的な位置で、この西方は動かない大地を起点にして西方と言っているのだ。
 考えるに「西方十万億土」とは、随分遠いところのようだが、年に一度お盆に、成仏した霊が浄土から帰ってきて、盆が終われば帰っていくのだそうであるから、結構近くなのかも知れない。そのうち天体望遠鏡で発見されて、浄土の風景や風情がテレビに映し出される時代が来るだろう。なにしろ、地球が存在する銀河系宇宙の他のアンドロメダ銀河のような宇宙が、何十も確認されているそうであるから。

 では、地獄はどこにあるのだろう。Webで拾った情報では、地中の奥深くだそうである。いわゆるマントルの真っただ中。こんなところに大炎熱地獄や、その反対の寒地獄があるというのか?

 浄土の雄大さと違って、地獄の存在するところが、あまりにもチッポケすぎる。地球は銀河系宇宙の端っこにある小さな太陽系の中に存在するこれまた微小な惑星である。

 神が創り給うた「天地」という概念がある。天は宇宙、地は地球。あまりにもチグハグな対比だと思うが、それは何故か。人間を中心としているからである。それも、「地球は丸い」と提唱すれば弾圧を受けた時代の概念である。
 地は平らかで、何処までも続くものだと考えたら、「天地創造」も、「天国と地獄」も納得できる。
 では何故神話などが人間中心とされているのか。それは当然のことで、人間が創ったからである。神も、仏も、天国や浄土、地獄も、人間がその空想から生み出したものである。

 地獄は存在するか否か。それを論争するのは、あまりにも低次元である。有るか無いか結論が出たところで無意味である。それは人間の心の中にあるものだからだ。

 「地獄は、現世の何処にでもある」 こんな意見を出した人が居たが、この考えは人間の苦しみを地獄に比喩したもので、論外である。受験地獄や、恋愛地獄、そして蟻地獄などがそれである。

   (猫爺の寝言集より抜粋)