雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺のエッセイ「加齢と老化」

2015-09-03 | エッセイ
 加齢とは、生まれてから死ぬまで、歳を重ねて行くことである。「加齢臭」という言葉が作られたために、「加齢臭」=「老人臭」よって「加齢」=「老人」みたいなイメージをもっている人が多く居るように思う。
 加齢臭は、その年代の人の体臭で、赤ん坊にはミルクの臭い、外でよく遊ぶ子供たちは、日向の臭いが加齢臭だと猫爺は思っている。
 更に、加齢すると、体臭の元になる物質が変わったり加わったりして、いわゆる「おっさん臭」「おばさん臭」、やがて「年寄臭」と変化するのだろう。

 老化とは、生活環境などの違いにより、随分と個人差があるようだが、確実に進む肉体的、精神的な機能の低下である。
 その顕著な低下は、細胞を包み繋げるコラーゲンの減少である。これにより、見た目の老化が顕れる。
 コラーゲンは、口から摂取した蛋白質を材料に、その動物の体内で作られるものである。老化は、コラーゲンを作る機能が低下して起こる。
 「コラーゲンを作る機能」を、仮に「匠(たくみ)」と呼ぶことにしよう。匠がヨボヨボになっているのに、材料ばかりを押し付けても、コラーゲンを作ってはくれない。
 良質のスッポンのコラーゲンを、これでもか、これでもかと、いろいろな食品で摂取したところで、そのコラーゲンは「材料」でしかないのだ。コラーゲンの匠は、辟易してその材料を他へ回してしまう。腸壁とか、別のところで「材料」を欲しがっている別の匠が居るのだから。
 テレビCMで、肌に直接コラーゲンを塗ると、それが皮膚に浸透して、塗った人のコラーゲンになるように錯覚させているのがある。
 それならば、コラーゲンにピュアな色素で色を付けて塗ってみれば検証できるのではないかと猫爺は思う。
 一ヶ月ほど塗って、その人のコラーゲンが色に染まっていれば、スッポンか何かのコラーゲンが生きた細胞の周りに浸透して納まったことになるだろうに、何故やらないのか。

 小さな文字でテレビ画面に「個人の感想であり、効果を保証するものではありません」と表示さえすれば、「効能」と取れる紛らわしい文言を電波で流してもかまわないというザル法では、騙される消費者は減らない。

 ある「飲んだだけで痩せる」と謳ったサプリが「根拠なし」と指摘されてシェアから外れたが、あるブログで、「宣伝に使われていたタレントの責任は?」みたいなことが書かれていたが、彼女は演技者として雇われ、スポンサーが用意した台本通りに演じているだけである。したがって視聴者は、彼女たちの演技を見せられているに過ぎない。
突然、街角でインタビューされたとして、まことしやかに答えている人たちも、ギャラを貰って散々リハーサルを重ね、視聴者の面前で演技をしているのだ。
 あの人たちが責任をとる筈はなかろう。