雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺のコラム「人生とは」

2015-09-30 | コラム
 「人生とは?」宗教家は、とかく物事を難しく説いて、信者を集めようとする。それが商売なのだから当然だろう。
 物書きは、別にどうでもよい事でもネタにして本を出版する。これも、商売なのだから当然だ。
 商売でなくても、当たり前のことでも、とかく人間というものは理屈を捏ねたがるものだ。

 今朝も、宗教関係のチラシが、講演会への参加を呼び掛けていた。「人生とは何か?」を、説いてくださるそうである。

 お偉い識者には必要なのかも知れないが、ド凡人の猫爺はこう考える。

 人生とは、偶々生まれてきて始まるもので、一生懸命に生きて、一生懸命に終わる。その過程が人生であって、どう社会に貢献したか、人の為になったか、苦楽を共にした家族を守ったか、どう死んでいったか、そんなことを考えようと考えまいと、人生は快く過ぎ去っていくものなのだ。
 悔い無き人生であろうと、悔いばかり残る人生であろうと、真面目に一生懸命に駆け抜ければそれで良いではないか。

 「人生とは」と、考えないのは、決して投げやりなのではない。「人生とは」と、考えない人生を一生懸命に駆け抜けてきたのだ。

猫爺の日記「猫爺の昼餌」

2015-09-30 | 日記
 「ららランチ」 なかなか恰好いい命名で、すっかり気に入ってしまったのだが、この盗用が猫爺には似合わないことに気付く。自分に似合う言葉を考えたところ「猫爺の昼餌」だった。
 自分一人では行けないところなのだが、車で「蔵ずし」に連れて行って貰った。生魚はあまり好きではないので、「天丼とアサリの赤だし」を注文したら、ベルトでピューッと飛んできた。天丼400円、赤だし180円也。ジャパネットの会長さんではないが、「安いでしょう」

 昨日は、病院の眼科に行ってきた。「見辛くなってきた」と訴えたら、医者なら、もう少し言い様があろうに、「仕方がないなぁ、年だからな」だと。別にショックは受けないけれども、「何のために通ってきているのだろう」と、猫爺首を傾げる。

 最近は、杖を持った老人が増え過ぎて、杖など何のステータスにもならない。突かれたり、歩いている直前を遮られたり、フラついて人に当たりでもすれば、睨みつけられる。バスや電車の中では、昔のように「お年寄りに席を譲る」なんてことは最近では皆無である。こっちも、譲ってもらおうとは思わないけれども、自分の若い頃は「進んで席を譲ろう」と心がけてきたことが、まるで馬鹿のようだ。

 バス亭に、標語が掲げられていた。「自分から、勇気を持って、挨拶を」だって。挨拶は勇気がないと出来ない時代なのだなぁと心が曇った。